GC Travel
  猫のマ—クのGCTravel
GCトラベルでは「旅探し」をテーマに
旅行コンサルタントの海山栄先生に旅を楽しく、意義あるものにするために、
いろいろお話を聞く欄を設けました。 皆様からの質問もお待ちしています。
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パリに1月住む

―ノートルダム寺院はどこにありますか?

海山栄:セーヌ川のシテ島にあります。この島には昔はケルト系パリシィ族が住んでいたといわれます。

―ケルト民族はどこに住んでいたのですか?

海山:ケルト人は広くヨーロッパ大陸に住んでいました。しかしローマが勃興してくると彼らとの戦いに敗れ、ブリテン島やアイルランドに逃げていきます。アイルランドはケルト民族の文化が最も色濃くのこっています。フランスはローマ帝国の時代はガリアといわれていましたがローマの将軍カエサルが彼らの勢力を滅ぼしました。カエサルの著書「ガリア戦記」はケルト民族を知るための貴重な資料です。

―ノートルダム寺院の名前の意味は何ですか?

海山:ノートルダムはフランス語でわれらの貴婦人という意味でキリストの母マリアをさします。ですからノートルダムという大聖堂、修道院、礼拝堂、墓地は数えきれないほどあります。

―キリスト教の創始者ではなく、キリストの母をなぜノートルダム寺院のような形で信仰するのですか?

海山:キリスト教はユダヤ教を刷新しようとして始まりました。キリスト教の信者は最初はユダヤ人だけでした。キリストが刑死する直前の「最後の晩餐」に描かれている12 使徒がすべてユダヤ人であることからもわかります。キリスト教をすっかり変えたのはパウロです。彼はローマ帝国の当時の中心地、地中海沿岸でギリシャ語で布教するようになります。ユダヤ民族以外の人々にも布教し他の民族の人が受け入れやすい教義に変えたのです。例えばユダヤ教では豚肉を食べることは禁止されていますがキリスト教では食べられます。

―聖母信仰もその一環ですか?

海山:そうです。パウロとその後継者はキリスト教を布教するのに心を砕き、ローマ帝国の一般市民が信じていた宗教から様々なものを取り入れました。多数のローマ市民が信じていたのはペルシャからのミトラス教とエジプトからのイシス教です。ミトラス教からはクリスマスを取り入れ、イエスの誕生日にしました。そしてパンと葡萄酒でミサをすることにしました。イシス教からは女神のイシスが我が子を膝の上に抱いて可愛がるのをイエスの母とし、幼児イエスを抱いたマリア像が出来上がりました。イエスの顔はギリシャ神話の主神ユピテルをまねたといいます。このようにしてキリスト教はローマ一帯に普及し,ローマの国教にまでなります。

(10) ロンドンーイギリス王室とドイツ

―イギリスは台頭してきたドイツと第1次、第2次世界大戦を戦いますがイギリス王室にはドイツ人の血が入っていますね。

海山栄:そうです。日本人には考えにくいですがヨーロッパの王室は結婚によって各国がつながっています。面白いことにスコットランドに縁の深いスチュアート朝と議会がしばしば対立し外国からイギリスに王を迎えるというケースが起きます。

―ジェイムス1世は良い例ですね。

海山:エリザベス1世は子供がいませんでしたので1603年彼女が亡くなるとスコットランドからスチュアート朝のジュエイムス1世を迎えます。彼はスコットランド王ジエイムス6世のままイングランドではジュエイムス1世となります。彼は王権神授説を信じ議会と対立します。その息子チャールス1世が次の1625年王位に就き、妻のフランス王女アンリエット・マリーのカトリシズムと絶対王政に傾倒しました。そのため議会と対立します。軍事的対立となり、チャールス1世は破れ1649年処刑されます。護国卿クロムエルの独裁政治の後、王政復古が起こり、チャールス2世、続いてジュエイムス2世が王位に就きますが横暴な政治を行なったため、ジュエイムス2世は追放されます。そしてオランダの統領オレンジ公ウィリアムとジェームズ2世の娘メアリ(メアリ2世)を共同統治者として迎い入れます。これは一滴の血も流されなかったので名誉革命(1688年)いわれます。

―ドイツの血は何時から入ったのですか?

海山:オレンジ公ウィリアムとメアリの後はアン女王が継ぎますが彼女が亡くなると1714年、ジョージ1世がハノーファー選帝侯兼グレートブリテン王という形で迎え入れられます。彼は1660年ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子エルンスト・アウグストとゾフィー・フォン・デア・プファルツの間に生まれ、ゾフィーの祖父はイングランド王ジェームズ1世でした。1701年の王位継承法によりプロテスタントでないと王位につけないためです。彼は英語ができなかったのとイギリス政治に興味がなかったので責任内閣制というイギリスの民主主義政治が軌道に乗り、イギリス政治は前進するのです。南海泡沫事件などの処理をロバート・ウォルポールは適切に行います。1721年第一大蔵卿になりますが初代イギリス首相とするのが一般的です。責任内閣制はロバート・ウォルポールのもとで確立したといってもいいでしょう。

(ロンドン(9)―中国とアングロ・サクソン

―イギリス人はアングロ・サクソンですか?

海山栄:409年にローマ帝国がブリタニアから撤退した後、現在のデンマーク、北部ドイツの近くにいたゲルマン人がブリテン島に渡ってきました。彼らがアングロ・サクソン人でその言語が英語の基礎になりました。今のイギリス人はデーン人、ノルマン人、ケルト人などが混血して成立しましたから血統的に同一とは言えません。しかし大陸ヨーロッパや日本ではイギリス、アメリカ、カナダ・オーストラリアなどをアングロ・サクソンと呼びます。ここではアングロ・サクソンであるイギリス・アメリカと中国の対立という点から考えて見ます。

―アヘン戦争は英中の対立ですね。

海山:そうですね。1940年、イギリスの中国へのアヘンの輸出に抗議してアヘン戦争が起きましたが中国はイギリスに負けて南京条約を結びました。多額の賠償金と香港を割譲しました。出口治明氏はアヘン戦争によって西欧の勃興と東洋の没落が決定的になったといっています。今はアングロ・サクソンの米国と中国の対立が際立っていますが最初はアングロ・サクソンの英国と中国の対立でした。いずれもほぼ世界の覇権を握っている国と中国の対立です。

―中国は今年共産党結党100周年ですね。

海山:中国共産党は1921年に結成されて、ちょうど100年です。政権の樹立は1949年で政権樹立より72年です。ソ連は1917年に政権を掌握しましたが1991年に統治に行きづまり74年間の支配が崩壊しました。中国でこれを当てはめれば2年後に崩壊します。しかしそうならないでしょう。ソ連共産党と同じ1党独裁ですがソ連と異なり資本主義を上手に取り入れました。だから今中国のGDPはアメリカに次ぐ世界第2位になっています。

―米中の対立はどうして起きているのですか

海山:中国の経済的成功は中国に自信を与えました。リーマンショックの後、中国はそれを乗り越え継続的に経済が成長しました。コロナ禍もそれを抑え込むことが欧米諸国よりも中国がうまく成し遂げました。だから習近平国家主席は自信を深め強気になっていると思われます。彼が不安に思う点は上記のソ連の崩壊です。ソ連と同じならあと2年で中国はソ連と同じ運命となります。中国の共産党が民心をつなぎとめているのは中国人の生活水準を継続して高めたことにあります。アメリカに留学した学生も愛国心もあり習近平の政策を支持する割合が増えたようです。トランプ大統領は中国との対決姿勢を強めました。政権が代わって民主党のバイデン政権になっても対立は深まっているようです。トランプ大統領と異なり、G7とかの国際協調によって中国との対立に対処しようとしているようです。

(8)ロンドンに1カ月住むー国会議事堂

―テムズ川のほとりにある国会議事堂はイギリスの民主主義のシンボルですね。

海山栄:そうですが現在の状況になるまでには紆余曲折があります。1066年ノルマンディー公ウイリアムがヘースティングスの戦いに勝ってイングランド国王になります。国王は常に権力を強めようとしました。それに対して貴族は王の一方的な力による支配を弱めようとしました。イングランドは征服されたとはいえそこに住む民や貴族にとって一定のまとまりを持った国であり、先祖から受け継ぐ権利を守ろうとします。このような関係は議会と王権という形で様々な抗争を生み出します。

―マグナ・カルタは王権が絶対でないことを表していますね。

海山:はい。ジョンというヘンリー2世の息子がイングランド王になったのは1199年です。リチャード1世(獅子心王)という第3回十字軍に参加した騎士道精神あふれた兄がいましたがフランス王フィリップ2世オーギュストと戦争をして流れ矢に当たりなくなります。ジョンは定見もなく,重税を課し、臣下の婚約者を奪うという素行が悪かったのですがイングランド王になりました。そんな王でしたので父母から受け継いだ広いフランスの領土をほとんど失います。そこで貴族たちは権力を闇雲に振るわないで法と慣行を尊重するよう法文を突きつけサインさせたのがマグナ・カルタ(大憲章)です。マグナ・カルタは王に権力の乱用を制限する文書で議会の始まりとも言われています。

―その後の王たちハマグナ・カルタの精神に従ったのですか。

海山:いいえ。例えば17世紀チャールズ1世は議会を停止して直接統治しようとします。しかし議会はこれに反発して内乱状態になります.1649年チャールズ1世は処刑されます。イギリスでもフランス革命のルイ16世の処刑のようなことが起こり一時共和政になります。これを指導した中心者のクロムエルが亡くなるとフランスに亡命していたチャールズ2世が戻り王政復古となります。チャールズ2世の後は弟のジェームス2世が継ぎますが彼はカトリックで再度プロテスタントに代わってカトリックを国教にしようとします。このためジェームスの長女メアリーとその夫であるオランダのオレンジ公ウィリアムが共同統治者になります。これが名誉革命です。1702年にメアリーの妹アンが即位します。そのあとはドイツのハノヴァー選帝侯ゲオルグがジョージ1世として迎え入れられます。彼はこの時54歳で英語が理解できなかったので政治に介入することがなく議院内閣制が生まれるのに寄与したのです。

(7)ロンドンー第1次世界大戦とジョージ5世

―ジョージ5世の母は誰ですか?

海山栄:彼の母は絶世の美女といわれたデンマーク出身のアレクサンドラです。アレクサンドラはイギリス帝国が全盛期だった1863年(文久3年)のビクトリア女王の治世に彼女の長男のアルバート・エドワードに嫁ぎました。1840年中国がアヘン戦争でイギリスに敗れたため日本も危機感を強め明治維新に向かっています。1851年には世界で最初の万国博覧会が行われています。

―アルバート公ははやく亡くなったのですね。

海山;そうです。この最愛のアルバート公が1861年風邪をこじらせ腸チフスを併発して急に亡くなり、ビクトリア女王はショックで夫のアルバートの想い出のあるバルモラル城やワイト島にあるオズボーンハウスに引きこもってしまって国民の前に姿をださなくなったのです。そのため女王は政務をしないという非難の声が国民からあがり共和政にしようという運動さえ起こりました。しかし皇太子であり、ジョージ5世の父が腸チフスにかかり重体となると国民の世論は変わり、健康回復の祈願がうまれたのです。

―ジョージ5世は長男ですか?

海山:いいえ。次男です。長男のエドワードが1892年1月狩猟から帰ると急に体調が悪くなりインフルエンザに肺炎を併発して亡くなってしまいました。エドワードはビュルテンブルク王国の分家筋に当たるテック公爵家のメアリと翌月の2月に結婚することになっていました。彼はビクトリア女王の孫で1865年生まれであったのですがおもいがけず王位継承者になったのです。彼はまた兄と結婚することになっていたテック公爵家のメアリと結婚します。1901年ビクトリア女王が亡くなると父が国王エドワ―ド7世となりジョージは皇太子となりました。そして1910年エドワ―ド7世が逝去し,ジョージ5世が誕生したのです。

―ジョージ5世はイギリス王室にとってどんなでしたか?

海山:1776年にアメリカが独立し1789年フランスに革命が起こりました。アメリカは建国の初めから共和制でしたしフランスは革命が起きた時にはルイ16世夫妻を処刑して共和政となりました。第1次世界大戦が終了したときにはドイツ、ロシア、オーストリア、トルコで王制が廃止されました。イギリスでもアルバート公が亡くなってビクトリア女王が国民に前に姿を現さなくなったとき、国民から共和制にしようという運動さえ起こりました。この頃は王室の受難の時代でした。ジョージ5世はこの流れを知り上手に対処したといえます。

―第1次世界大戦はいとこたちの戦争といわれますね?

海山:そうです。ビクトリア女王の長女と結婚したのがフリードリッヒ3世でその子息がビルヘルム2世、次女アリスはヘッセン大公と結婚しますがその娘アレクサンドラの夫がロシア皇帝ニコライ2世です。ジョージ5世はビルヘルム2世やアレクサンドラ=ニコライ2世といとこです。

ロンドンーリチャード3世

―シェイクスピアは歴史劇が多いですね。

海山栄:そうですね。どこの国も自国のことはよく書く場合が多いですがシェイクスピアはスペインの無敵艦隊を破った時代にイングランドに生きた人です。 彼の歴史劇はイギリスの国家形成を描いてイングランドを中心としてスコットランド、ウエールズの人々との一体感を作り出すのにも寄与したと思われます。リチャード2世、ヘンリー4世などのシェイクスピアの史劇だけで100年戦争の経過がほぼたどれるといいます。

―自国をよく書くとは具体的にはどんなことですか?

海山:我々は100年戦争といえば初戦はイギリスが勝ちましたが最終的には奇跡をもたらした乙女ジャンヌ・ダルクの出現でフランスが勝利をおさめ、現在の英仏の国境が画定したという風に考えます。しかし英国の普通の国民は自国が100年戦争に勝ったと認識しているのだといいます。それは作家の佐藤賢一氏によればシェイクスピアの歴史劇の影響だといいます。

―傑作といわれるリチャード3世はどうですか?

海山:この歴史劇は1455年から1485年まで30年間続いたバラ戦争末期が背景です。白いバラのヨーク家のエドワード4世が赤いバラのランカスター家のヘンリー6世から王位を奪い取ります。ランカスター家に勝ったのはクラレンス公ジョウジとグロスター公のちのリチャード3世という二人の弟との協力によります。このリチャード3世が主人公ですが悪智恵が発達していて王位を兄達から自分のものにするために様々な陰謀をたくらみます。病気がちの長兄のエドワード4世と次兄のクラレンス公ジョウジを争わせます。その結果クラレンス公はロンドン塔で死に、エドワード4世がなくなるとエドワード4世の二人の王子も彼の策略で刺客に襲われ死にます。そしてグロスター公は王位に就きリチャード3世となるのです。

―リチャード3世という悪が勝利を収めるのですか?

海山:長兄には二人の王子とエリザベスという王女がいます。二人の王子はロンドン塔で亡くなりますがリチャード3世は姪のエリザベスと結婚しようとします。しかし人望がなく、理不尽なリチャード3世に対して反抗する勢力が生まれ、攻め寄せてきます。中心となるのがリッチモンド伯ヘンリーで人望があり凛々しくリチャード3世軍を破ります。リッチモンド伯は赤いバラのランカスター側でエドワード4世のエリザベスはヨーク家の白バラですが二人が結婚して赤いバラのランカスター家と白いバラのヨーク家の対立は解消します。このリッチモンド伯ヘンリーがヘンリー7世となりチュウダー朝を創始し、ヘンリー8世、エリザベス1世女王へとつながり英国の繁栄となります。この劇ではリチャード3世は醜く、悪い王ですが実際は醜くもなくエリザベス1世の祖父をシェクスピアが引き立てるために脚色したようです。

ロンドンに1カ月住むーシティ

―ロンドンのシティは金融の中心地ですね

海山栄:はい。世界一はニューヨークですがロンドンも有力な世界の金融の中心地です。そこにはシティと呼ばれる一角があります。それは自治行政地区で広さはほぼ一マイル四方で約2.5平方キロでセントポール大聖堂、イングランド銀行をはじめとする大銀行、ロイズ保険機構をはじめとする保険会社、株式取引所があります。また多くの大企業がここを根拠地としています。シティは正式にはシティ・オブ・ロンドンで古代ローマ人が植民地として建設しました。

―シティに取引所が出来たのは何時ですか

海山:シティのロンバート・ストリートには商人が集まって商談をしていました。しかし建物がなく不都合でした。「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則で知られているトーマス・グレシャムなどの尽力で1570年エリザベス1世臨席のもとにオープンしました。そのため王立取引所と呼ばれました。スペインとの戦いなどでの戦費の調達にこの取引所が役立ちました。

―産業革命、その結果、イギリスは世界経済の中心となりますがシティはどんなでしたか?

海山:株式会社は16世紀半ばに誕生し1695年には少なくとも140の株式会社が存在していました。数多くのブローカーも存在しましたが彼らの中にはあくどい仲介業者もいたため規制の必要が要請されました。そしてブローカーは免許を得なければならなくなったのです。1770年頃にワットの蒸気機関が発明されました。1785年には蒸気機関が紡績機械にも取り付けられるようになり生産力が飛躍的に向上しました。だんだんと工場は複雑化かつ大規模化し、より多くの資本が必要となり、特に1830年以降鉄道ブームが起こるとこの傾向は顕著となりました。1838年にはロンドンとバーミンガムを結ぶターミナルとしてユーストン駅が作られました。このような工業化の進展によって資金調達がますます重要となり、シティの役割が高まったのです。

―イギリスの時代は二つの大戦で去りましたがシティはどうなりましたか?

海山:イギリスの世界に対する役割は低下しましたが1979年のマーガレット・サッチャーの保守党内閣の出現によってビッグバンという自由化が行われました。株式の手数料が自由化され、ロンドン証券取引所の会員権が自由化されました。その結果多くの外資系企業が参入してハイリスク・ハイリターンの状況になりました。批判はありますがイギリスの経済力は復活しました。しかしイギリスはEUを離脱しました。これがシティにどう影響するか人々の注目の的です。

ロンドンーエリザベス1世とシェィクスピア

―エリザベス1世の時代にウイリアム・シェクスピアは活躍したのですね。

海山栄:そうです。彼は謎の多い人物ですが1588年頃に故郷のストラトフォード・アポン・エイボンを後にしてロンドンに出て行きました。1588年というとイギリスが世界最強のスペインの無敵艦隊を破った年です。

―どうしてロンドンに出たのですか?

海山:シェクスピアは1564年に生まれていますから24歳頃に故郷を出発していますがなぜロンドンに向かったかは何の記録もありません。ストラトフォード・アポン・エイボン村は当時人口2000人位で交通の要衝に位置していたのでロンドンからは200キロ弱離れています。新興国イギリスの熱気がこの村にも伝わってきたと思われます。自分の演劇の才能に気づいたのかどうかわかりません。しかしロンドンからやって来た演劇一座を見てその面白さに触発されてもっとレベルの高い劇のシナリオを描こう、そのためにロンドンに出よう、という大志,大望を持ったのでしょう。

―ウイリアム・シェクスピアは何時頃からロンドンで知られるようになりましたか?

海山:1792年あるケンブリッジ大学でのインテリ文士がシェクスピアのことを俳優で劇作家として書いています。このインテリはなかなか成功しないのですが田舎のグラマースクールしかでていないシェクスピアが当時の演劇界で喜劇、悲劇、歴史劇で異常なまでに成功したのでそれを妬んで中傷する文章を書いています。

―新興国イギリスの熱気とは何ですか?

 彼女は1558年姉のメアリから王位を受け継ぎます。メアリの治世の時はカトリックでした。ヘンリー8世がローマ・カトリックと決別して、後を継いだエドワード6世もプロテスタントだったがメアリはカトリックにもどし、スペイン王フィリップと結婚し国内は混乱します。この混乱状態を平常に戻し国民の士気を高めたのがエリザベス1世でした。宗教はヘンリー8世が始めた英国国教会の体制を確立します。そして英国人はモロッコ、ギニア、レヴァント地方(トルコ)、ロシア、アメリカ大陸などに進出するようになりました。

―エリザベス1世は演劇に対する態度はどんなでしたか

海山:プロテスタントの中に純粋に聖書の教えを守るという清教徒の一派があります。彼らによると演劇は人を堕落させるという偏見を持っていました。エリザベス女王は本人も演劇を好きだったし、演劇を擁護しました。1574年レスター伯一座に対して最初のロンドン市内の興行許可証を与えました。1583年には部下に命じて女王一座を編成させ、自らのそのパトロンになりました。宮中で行われた御前公演は90回に及びシェイクスピアも2回はこれに参加したそうです。

ロンドン(3)-イギリスの王室はなぜ人気があるのか

-日本の女性にチャールズ皇太子と結婚したダイアナ妃は非常な人気でしたね。

海山栄:そうですね。ダイアナ妃は名門のスペンサー伯爵家の三女として1961年に生まれました。彼女は幼稚園の先生でしたので一般の人から親しみやすさを感じたのでしょう。また彼女は悲劇の皇太子妃だったこともその一因でしょう。

―ダイアナ妃は外国人でないのは珍しいですね。

海山:そうですね。両親がともに英国人です。英国のキリスト教は英国国教会でプロテスタントです。ですから結婚相手はプロテスタントが望ましいのです。例えばヴィクトリア女王は1840年にサックス・コーバーク・ゴウサ公爵の息子アルバートと結婚しました。ドイツ系です。エリザベス2世はギリシャ王家の王子アンドレオスの長男フィリップ・マウントバッテンと結婚します。彼は1921年ギリシャのキルケラ島の生まれです。彼はグリュックスブルク家出身でこの家出身者がノルウェーやデンマークの王位に就いています。彼の伯父はルイスマウントバッテンでこの伯父の勧めで海軍に進み海軍士官のときエリザベス2世が一目ぼれしたといわれています。このマウントバッテン家の遠祖はドイツ系です。イギリスの王室は宗教と釣り合いのとれた家柄ということからドイツ系が多くなります。

―美貌のダイアナ妃はチャールズ皇太子との離婚そして自動車事故による死亡という悲劇に見舞われました。ウイリアム王子とキャサリン妃の結婚は2011年4月29日に行われ、この結婚式はウエストミンスター寺院で行われ、そのあと祝レードを見るためにロンドンには100万人が集まったといわれます。そしてテレビ放送されそれによる映像を見た人の数は24億人だといいます。

―どうしてイギリス王室はこのように人気があるのでしょうか?

海山:人間は伝統とか権威が好きです。イギリス王室は紆余曲折がありますが長い伝統があります。そして例えばエルザべス1世の時代は権力と権威の双方を保持していました。しかし名誉革命とかピューリタン革命、ジョージ1世によるハノヴァ―朝の開始などにより、王の権力はだんだんと制限され現在のような立憲君主制になりました。イギリス人にとって王室はその歴史やさまざまの物語によって自身のアイデンティティになります。どこの国でも王は最初は独裁的でした。そのためフランス革命やロシア革命が起こりました。アメリカは最初から王がいませんでしたがその代わり、大統領を非常に高く評価します。ケネディ大統領のような悲劇が起こるとケネディ家はロイヤルファミリーといわれたりします。

ロンドン(2)エリザベス2世とサッチャー元首相

―イギリスの王位保持者、現在のエリザベス2世は首相に政治的な影響力はゼロですか?

海山栄:昔は王は政治を行ったのです。王は政治そのものだったのです。王は「君臨すれども統治せず」といわれているように現在は政治に介入できません。しかし女王は毎週水曜日バッキンガム宮殿で国会会期中首相と会見して国政や外交課題について報告を受けます。女王と首相以外は誰も同席せずにこの会見は行われます。この会見中様々なことがかなり突っ込んで話されるようです。ですから影響がないとは言えませんが同席者は存在しませんし、各首相も内容を公にしませんので何が話されたかわかりません。ビクトリア女王はアルバート公との結婚前は1834年に首相となったメルボーン子爵を寡婦になってからはディズレーリ首相を好み、グラッドストンは好まなかったといわれていますがエリザベス女王にも好き嫌いはあったでしょう。現在存命中なのでその日記は公開されませんが彼女の崩御後にはさまざまなことが分るでしょう。

―鉄の女といわれたイギリスでの最初の女性の首相サッチャーはエリザベス女王とは良い関係でしたか?

海山:二人の関係はジャ―ナリズムやイギリス国民また諸外国からも興味を持って見られ不仲説も根強かったといわれます。サッチャーは1925年10月生まれですが、女王はその半年後に生まれています。彼女は1979年から1990年まで首相を務め徹底的に国営企業の民営化を進めました。彼女が敵視したのは強い労働組合が支配した石炭産業でした。笠原敏彦氏の「ふしぎなイギリス」によりますと彼女は政権2期目まで待ち、長期間の炭鉱ストが行われても困らないように十分石炭を備蓄してから労組との全面対決に入ったといいます。その結果国営の150炭鉱は閉鎖され、炭鉱産業は壊滅したのです。イギリス中部にある最古の産業都市として誇りの高いサルフォード市の人々はこの町には炭鉱という産業があり、雇用の機会がありました。しかしサッチャーはこれをつぶし、人々はコミュニティを失いバラバラになったと長期にわたり恨らみました。2013年サッチャー亡くなった時には多くの人が「彼女の死を祝おう」と集会を開いたり、例えば映画「オズの魔法使い」の音楽、「鐘をならせ、悪い魔女は死んだ」をヒットチャートに入れるキャンペーンを行ったりしました。

―サッチャーの死はどんなでしたか?

海山:彼女は2013年4月8日で脳卒中でなくなりました。晩年は認知症でした。葬儀はロンドンのセントポール大聖堂で行われエリザベス女王夫妻が参列しました。国王は「平民」の葬儀には出席しないことになっていて女王が首相の葬儀に出席したのは異例なことでした。チャーチル以来2度目だといいます。

(1)ロンドンに1ヶ月住むー

 

―イギリスは女王の時代に繁栄するといわれていますね。

海山栄:はい。女王の時代が必ず発展するわけではありませんが次の二人の女王の時代、すなわちエリザベス1世女王とヴィクトリア女王は非常に注目すべき時です。現在のイギリス君主も女王で、エリザベス2世です。エリザベス1世女王はスペインの無敵艦隊を1588年に破りイギリスを一流国にし、ヴィクトリア女王はイギリスの最盛期に1937年から1901年まで王位にありました。ですからロンドンに住む場合二人の女王を知ることは意味があります。

―エリザベス1世の治世では宗教はカトリックですか?

海山:コロンブスのアメリカ到着後わずか25年でルターの宗教改革が始まります。イギリスはエリザベス1世の父であるヘンリー8世が母のアン・ブーリンと不倫関係にありました。アンは結婚を要求し、スペインから嫁いだキャサリン妃とヘンリー8世は離婚したいためローマ教皇に願い出ましたが認められませんでした。当時結婚や離婚はカトリック教会が管轄していました。1534年自らを教会の首長とする首長令を議会において成立させ、英国国教会の長となります。そして修道院を解散してその財産を没収しますが教義とか教会の儀式は従来のカトリック教会の通りに行いました。1547年に王が没しエドワード7世が即位しますが体が弱く夭折します。彼の時代はプロテスタントの隆盛の時代です。

―エリザベスの前半生は過酷だったといいますが?

海山:母は捏造された不義密通の容疑によりロンドン塔に幽閉され、有罪の判決を受けて処刑されています。ついで1553年エドワード7世が死去しエリザベスの異母姉のメアリが王位につきます。熱烈なカトリック教徒のメアリはプロテスタントを弾圧し、300人を処刑します。メアリ女王はプロテスタント教育を受けたエリザベスは敵視しました。1554年イングランドとウェールズの各地でメアリ女王に反対するワイアットの乱がおき、鎮圧されますがエリザベスにも容疑がかかりロンドン塔に収監されます。必死の弁明をし、助かりますが女王になるまでには物語以上の事件が彼女に降りかかりました。

―イギリスのカトリック教徒はヘンリー8世の英国国教会の設立ですぐこの教会の信者になったのですか?

海山:ヘンリー8世はルターのような教義の大幅な変更、教会の儀式の改定などは行いませんでした。ですから1558年エリザベスが即位したときには3/4 はカトリックでした。彼女は1603年に死去するまで45年間王位にありましたが英国国教を嫌う数は減り、旧教勢力はほとんどなくなりました。それはイギリス内に富が順々に蓄積され、国民のエネルギーがそれに向かって蓄積されていったからでしょう。


(6)ウィーン―フランツ・ヨーゼフの時代

―フランツ・ヨーゼフ皇帝は1848年から1916う年まで帝位にあったのですね。

海山栄:そうです。この期間は世紀末を含み、文化が美しく花開いたのです。絵画、音楽、文学、建築が中心ですが経済や法学も20世紀をリードすることになる偉大な人を生みだしたのです。オーストリア帝国の蔵相を3度も務めたのちウィーン大学教授に戻った経済学者のボエーム・パベルクとかシュンペーターなどです。

―フランツ・ヨーゼフの時代よき時代だったのですか?

海山:ボエーム・パベルクはマルクス主義の矛盾を述べたそうですがこのゼミで「金融資本論」で有名なヒルファディングなどのマルクス主義派が堂々と議論をするという自由な雰囲気がありました。それが偉大な人々を生み出すことにつながったのでしょう。

―シュンペーターとはどんな人ですか?

海山:オーストリア=ハンガリー帝国のモラヴィア(現在のチェコ)に生まれた経済学者です。1883年生まれで、同じ年に生まれたイギリスのケインズとともに20世紀を代表する経済学者です。ナチスが台頭してきた1932年にアメリカのハーバード大学に招かれて教授として活躍します。資本主義の強さは起業家のイノベーションによるところが大きいことを主張します。新製品、新しい製造方法や新しい消費者の発見などによって従来の方法を変える。それが経済の成長をもたらすことを述べました。今は,デジタル化、脱炭素、コロナ禍に関することなどのイノベーションが世界の関心の的です。

―音楽の都、ウィーンではワルツが生まれたのですね。

海山:ナポレオン戦争が終了しウィーンで講和会議が開かれ、その時から流行し、ヨーロッパ全体に広がりました。ウィーン・フィルハーモニーの元日コンサート今も毎年行われますが必ずシュトラウス父子が作曲した二つの非公式国歌「美しき青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」で終わります。

(5)ヴィーンに1カ月住む-エリザベート皇妃

―絶世の美女といわれたフランツ・ヨーゼフ帝の皇妃エリザベートの肖像画はどこで見ることが出来ますか?

海山栄:それはウィーン美術史美術館にあります。フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルターはドイツの宮廷画家で、彼は1865年に28歳のエリザベート皇妃を描いており、イギリスのヴィクトリア女王やフランスのウーゼェニー皇妃の作品もあります。

―フランツ・ヨーゼフ帝はどんな人ですか?

海山:1848年2月にパリで革命が起き、それがウィーンにも影響して3月革命となりますがその年に即位し、1916年に亡くなるまで68年間もの長い間王位にありました。彼の皇后エリザベートは1837年にヴィッテルバッハ家という名門に生まれます。1853年姉のフランツ・ヨーゼフ帝とのお見合いに面白がってついていきました。姉のヘレーネは礼儀正しいまじめな性格でした。フランツ・ヨーゼフ帝はエリザベートの方を選らんだのです。皇帝の母ゾフィー大公妃は反対しましたがフランツは普段は母に反対しないのですがエリザベートとの結婚には断固として自分の意見を通しました。しかしこれはある意味で不幸でした。自分と同じ性格の姉を選ばず自由で活発なシシイが気に入ったのです。

―不幸というのは義母ゾフィとの関係ですか?

海山:はい。エリザベートは愛称をシシイといい芸術家気質の父親マクシミリアン公爵の影響を受けています。マクシミリアンは堅苦しい宮廷のつき合いを好まず面倒な宮廷儀礼やしきたりが嫌いでした。狩猟、乗馬、釣りに熱中し、チターやヴィオリンを弾き、詩作や作曲もするという人でした。アルプスが良く見える広大な庭には何頭もの馬が飼われ、小鳥がさえずり緑があふれていました。8人の子供のうちで性格が似ているシシイを可愛がり、山登りや馬の遠乘にいつも連れていきました。シシイは宮廷の礼儀作法は身に着けずにフランツ帝と結婚したのです。

―フランツの母のゾフィはどんな人ですか?

海山:3月革命の危機の時にフェルディナント1世は退位せざるを得ませんでした。カール公が帝位に適した人でなかったので彼女は夫のカール大公ではなく息子のフランツ・ヨーゼフを帝位につけました。フランツ・ヨーゼフの帝王教育にも一役を担ってきたゾフィとシシイとのうまくいくはずがありません。

―ゾフィとシシイはどんな点で衝突したのですか?

海山:宮廷の規則を守り、山ほどある公式行事に出席することがシシイは苦手でした。ゾフィから見ると帝国の皇妃になった以上自己のわがままを殺して帝国のために尽くすのが当然のことでした。そしてシシイはこの宮廷の束縛のため心身ともに疲れ果ててうつ病となります。医者の転地療法のすすめで大西洋の孤島マデイラ島に行きます。ここで元気を回復しスペイン各地や地中海を旅して2年半後に帰りますがウィーンに戻るとまた病気がぶり返し、そうならないために旅また旅の生活に戻ることになります。

ウィーンに1カ月住む(4)――パリに嫁いだ、マリーアントワネット 

―シェーンブルン宮殿はハプスブルグ家の夏の離宮として訪れるべき場所ですがフランス革命でギロチンにかけられたマリーアントワネットはそこで過ごしましたか?

海山栄:はい。シェーンブルン宮殿に王子、王女はよくやってきて盛装してダンスをしたり、お芝居をしたりしたといいます。神童のモーツアルトもここでピアノの演奏をして、そのあと床で滑って転んだ時マリーアントワネットが助け起こしたといいます。

―マリーアントワネットはフランスに嫁ぎましたがルイ王朝とハプスブルク家は仲が悪かったのではないですか?

海山:そうですね。マクシミリアン1世がヴァロア朝のルイ11世と戦って以来仇敵の仲になりました。そのフランスと縁組をするというのはマリア・テレジアが1753年にカウニッツ伯爵を宰相に登用して彼の外交の政策を採用したからです。

―プロイセンのフリードリッヒからシュレージェンを取り返すためですね。

海山:はい。カウニッツはロシアのエカテリーナ二世がプロイセンを嫌っていることに注目してロシア、フランス、オーストリアが同盟してプロイセンと戦えばフリードリッヒから奪われた領土を取り返せるという構想でした。マリア・テレジアはこの案に大いに賛成して彼にこれを推進する事を依頼します。

―それは実現しますか?

海山:カウニッツは自らパリに行きルイ15世の愛妾ポンパドール夫人と密議をして同盟が成立します。そしてマリーアントワネットがルイ16世と結婚することになります。これは3枚のペイコート同盟といわれプロイセンの包囲網ができあがり、この結果1756年に7年戦争が起きます。初めはフリードリッヒが有利でしたが、次第にプロイセンの威勢は衰え、一時的にオーストリア軍がベルリンを占拠するに至りますが1762年1月ロシアのエカテリーナ二世が亡くなり甥のピュートルが王位につきます。彼は熱狂的にフリードリッヒ崇拝者だったので7年戦争は終結し、シュレージェンは戻らずプロイセンの領土として確定します。第2次世界大戦後はポーランドの領土になっています。ポーランドはカトリックが主流ですがシュレージェンにはプロテスタントの教会がいくつもあります。

海山先生(33) ウィーンに1ヶ月住む―シェーンブルン宮殿

 

―シェーンブルン宮殿はどのようにして建てられたのですか?

海山栄:オーストリアというのはドイツ語で東の国でありトルコなどのアジアからの防衛を担う国とされていました。事実オスマン帝国から1529年第一次の包囲があり、1683年には第二次包囲が行われました。オスマン帝国からの脅威が去った後レオポルト1世はマクシミリアン2世が狩猟地として使っていた土地に夏の離宮として宮殿をたてることを決めました。ハプスブルク家は30年戦争やオスマン帝国の包囲などでかっての力がなくなっていましたが宮殿の建設でかっての勢威を回復させたいと願っていました。ヨハン・ベルンハルト・エルラッハに設計を依頼しました。当初の計画はフランスのベルサイユ宮殿をもしのぐ壮大なものでしたが財政的に苦しく建設は遅れ、規模は縮小され、マリア・テレジア治世の1750年ごろに完成されました。

―マリア・テレジアは王位をカール6世から引き継ぎますがそれは順調だったのですか?

海山:いいえ。マリア・テレジアの父、 カール6世はベルギーやナポリ、ハンガリーからポーランド西部などの一大帝国を支配しましたが特に目を引くのが相続順位法です。

―相続順位法は何が狙いですか?

海山:長子相続を明確に打ち出しました。英仏は長子相続なので領土が分割されることはありません。ハプスブルク家では領土を兄弟で分割して相続しました。この法律は兄弟争いなどの内紛を防ぐことが目的であったのですが嫡男がいなかったので女性のマリア・テレジアでも嫡男と同様に相続できることを意図していました。ハプスブルク帝国の国内では各州の議会がこれを承認したので国内法となったのです。英仏、プロイセン、バイエルンなどはなかなか認めませんでしたのでこれらの国々に領土の一部を提供してやっと承認を得ました。 しかしカール6世が1740年に逝去するとマリア・テレジアは大公女にすぎない、しかるべき男性が王位につくべきだとプロイセンなどの諸外国は認めませんでしたのでオーストリア継承戦争が始まったのです。プロイセンのフリードリッヒは2ヵ月後に軍隊を発進させポーランド西部のシュレージェン占拠してしまいます。

―マリア・テレジアはプロイセンのフリードリッヒの仕業に泣き寝入りしたのですか?

海山:いいえ。女王に即位して間もなく、ハンガリー議会に乗り込みプロイセンの非を訴え、協力を要請した。ハンガリー人は唯々諾々と従うことはなかったのであるがマリア・テレジアの真摯な訴えに魅了され兵士と資金を提供して戦うこととなった。またハウクヴィッツやカウニッツ伯爵を登用して政治の改革を行いプロイセンの首都ベルリンの占領のもう一息のところまで反撃した。しかしシュレージェンは戻らなかった。

海山先生(32)ウイーンに住む(2)

―ハプスブルク家の3姉妹都市とはどこですか?

海山栄:ウィーン、ブダペスト、プラハです。中心はウィーンですが次女はハンガリーの首都ブダペスト、三女はプラハです。いずれもハプスブルク家が統治した都市です。そしてハプスブルク家の支配は寛容でしたのでウィーンには優れた人が集まりました。

―ウィーンに住んで1か月の間にブダペスト、プラハに行けますか。

海山:もちろんです。ブダペストには日帰りの観光バスがウィーンからでていますし、プラハには鉄道またはバスで行けます。詳しいことはGCトラベルでお聞きください。

-3姉妹都市についてお話しください。

海山:ウィーンは話すことが山ほどありますが今年12月はベートーベンの生誕250周年であるし、年末は彼の第9という交響曲で締めくくる人も多いかと思います。ハイドン,モーツァルト、シューベルト、マーラーなどベートーベン以外にも優れた作曲家が活躍します。彼はボンからやってきて沢山の名曲を作曲します。1804年に作曲した交響曲第3番はナポレオン・ボナパルトを讃えるためだったといいますがナポレオンが皇帝になったということを聞いてボナパルトというタイトルを英雄に変えたといいます。

―次は1956年ソ連軍に制圧された次女ブダペストですね。

海山:そうです。ハンガリーはアジア系のマジャール人が11世紀に建設した国です。一時トルコに支配されたこともあり、名前も姓が先でヨーロッパの中では異質である。1867年オーストリアとハンガリーは対等のオーストリア=ハンガリー二重帝国を形成しました。ハンガリー人は情熱的で軍人はドン・キホーテのように向こう見ずで音楽家は激しいリズムの曲を作るといわれる。まさにそのような作曲家がリストで代表的な曲が「ハンガリー狂詩曲」です。彼は交響詩というジャンルを創造しました。

―三女のプラハも美しい街ですね。

海山栄:プラハは第2次世界大戦に戦災に会いませんでしたのでプラハは中世の面影を残しています。チェコはハプスブルグ朝の公用語がドイツ語でしたので19世紀半ばに民族意識に目覚めた知識人たちは民族の自信の基礎であるチェコ語の振興と民族音楽を重要視しました。スメタナは彼の代表作となるオペラ「売られた花嫁」の台本がチェコ語で書かれています。スメタナはロマン派音楽の方法でボヘミアの農村を生き生きと描き、ロマン派音楽のなかにチェコの国民音楽を組み込むことに成功したのであった。ドボルザークは1878年に「スラブ舞曲」を発表して評判となり、プラハ音楽院で作曲を教えていましたがアメリカに招かれ、滞在したので黒人音楽の影響を受けて、「アメリカ」や「新世界」を創作しました。

海山先生(31)ウイーンに住む(1)

―ウィーンに1ヶ月住むとしたら、まず何を知ったら良いでしょうか?

海山栄:まず、ハプスブルグを知ることでしょう。

―ハプスブルグとはなんですか?

海山:王朝の名前です。ルイ16世とその妃マリー・アントワネットはフランス革命に際してギロチンにかけられて亡くなります。ルイ16世は、太陽王と言われたルイ14世やロココの時代のルイ15世の子孫でありブルボン王朝に属します。ハプスブルグ家は日本人にはよく知られていませんがウィ~ンを中心として約650年続きました。

―何時から何時までですか?

海山:1273年ニルードルフ1世が神聖ローマ帝国の王位についてから1916年ハプスブルク家最後の皇帝フランツ・ヨーゼフが86歳の高齢で亡くなるまでです。

―ハプスブルグ朝は最初からウィーンを根拠地にしていましたか?

海山:いいえ。発祥の地はライン河の上流スイス東北部からドイツ、フランスのアルザス地方一帯です。当時、オーストリアはドイツ語で東の国であり、トルコなどのアジアの国からの防衛を担う要塞の役割をする地域でした。

―いつからウィーンに出て行ったのですか?

海山:ルードルフ1世の時代はスイスの諸州と良好な関係がありましたがその子のアルプレヒト王の時代になると関係が悪くなりスイスの諸州は独立します。その関係でウィーンに根拠地を変更します。ハプスブルク家はあまり華々しい活躍はしませんでした。しかし1440年フリードリッヒ3世が再び神聖ローマ帝国の王に選ばれます。フリードリッヒは才知に富まなかったが誠実で忍耐深かったのです。そして長生きし53年間も王位に付いていました。それが奇跡を引き起こしたのです。

―どんな事件が起きたのですか?

海山:戦争に勝つというような事件ではありません。1452年まず。フリードリッヒはポルトガルの王女エレオノーレとローマで結婚し、そこで教皇から帝冠を受けます。そして妃との間に1459年待望の王子が生まれます。その王子は後の皇帝マクシミリアン1世となります。彼が成長して立派な若者になった時、彼の父、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒはブルゴーニュ公国の王シャルル突進公に息子マクシミリアンと突進公の一人娘、王女マリアとの結婚を申し込み、受けいれられます。

―結婚が事件ですか?

海山:結果的にこれがハプスブルク家の飛躍になります。ブルゴーニュ公国のシャルル突進公の父、フィリップはディジョンを中心としていましたが北方のフランドル地方を手に入れます。その結果、ディジョンから今のベルギーのブルッセル中心が移りました。このフランドル地方は優れた毛織物産業で栄え、経済的にも文化的にもヨーロッパの最先端の地域の一つでした。 ブルゴーニュ公国はフランスと犬猿の仲でした。シャルル突進公は間もなくスイス軍との戦いで戦死し、王女マリアを妻としたマクシミリアン1世はフランスと戦い立派な騎士らしい戦いをします。マリアとは仲が良く、1男1女を授かります。跡継ぎのフィリップは美男子だったのでフィリップ美公と呼ばれるようになります。マリアは4年半後に落馬して他界します。このようにしてハプスブルク家はヨーロッパの先端地域を支配する大国になります。

 

海山先生(30) ヴィクトリア女王と3人の男性

―ヴィクトリア女王の時代、即ち1837年から1901年はどんな時代ですか?

海山栄:イギリスが大英帝国として最も栄えた時代です。1840年には中国との間にアヘン戦争が起きます。日本がこの状況を見て明治維新を行いました。

―ヴィクトリア女王の時代は日本の明治維新のように世界に影響を与えたのですね。

海山:そうです。彼女は1840年サックス・コーバーク・ゴウサ公爵の息子アルバートでこの結婚は女王にとって1番幸せの時期でした。1837年彼女が王座に就いたときはまだ18歳の乙女でした。女王は政治上のことも考えなければなりませんでした。彼女が頼りにしたのは首相のメルバーン子爵でした。彼は1779年メルバーン子爵家に生れ、イートンからケンブリッジ大学に進み、弁護士になった後、政治家となり、ホイッグ党政権のグレイ伯爵内閣で入閣しました。1834年グレイが辞任すると組閣の大命下りました。そしてヴィクトリア女王が即位すると総選挙が行われ、ホイッグ党は過半数を占め政権を維持できました。彼は首相としては特に優れてはいませんでしたが女王には気に入られました。彼は半白の髪、黒い太い眉、大きな目を持った典型的な老紳士で洗練された立ち居振舞い、優雅な言葉で女王を魅了しました。ウインザー城に私室を与えられ子爵は一日ほとんどを宮廷で過ごし、女王にアドヴァイスをして君臣の間を超え、まるで父娘のようでした。

―メルバーン子爵を頼りにした時期から結婚の1番幸せな時期に移るわけですがこの期間は長く続きますか?

海山:1861年アルバートがチフスで亡くなるまで続きます。アルバート公が1番力を入れたのは1851年の世界最初の万博でした。600万人以上の入場者を集め、イギリス人生活様式が世界のモデルとなりました。また二人の間には4人の王子と5人の王女が生れ、イギリスの家庭のモデルとなり王室の人気も上がりました。

―未亡人の時期は1901年まで40年も続きますが?

海山:突如として未亡人となります。そのため政治もおろそ かになり、王制を排して共和政にせよという意見も出ますがイギリスの議会民主制を最高にしたといわれるディズレーリとグラッドストンの内の一人ディズレーリが女王を支えたのでした。1868年ディズレーリが首相となった時から心の支えになる言葉を与えたのです。彼はイタリア出身のユダヤ人でしたが作家から政治家に転じた。イギリスはドイツのナチスと異なりユダヤ人が活躍できる国でした。


ミュンヘンに1ヶ月住む(3)

―ノイシュバンシュタイン城とそれにかかわる物語は魅力的ですね。

海山栄:そうですね。ドイツはEUにおいて経済的には中心の国でイギリスがEUを離脱したので更に重要になったと言えるでしょう。ドイツ語圏では長い間ヨーロッパで強国として君臨したオーストリアのハプスブルグ家、ドイツ統一を主導したプロイセンのホーエンツォレルンプ家と共にヴィッテルスバッハ家は有力な王族です。北のベルリン、南のミュンヘンを対比して知ることはドイツ理解に欠かせません。このヴィッテルスバッハ家という王族のバイエルン王ルートヴィッヒ2世があの美しいノイシュバンシュタイン城を作ったのです。

―ルートヴィッヒ2世は祖父のルートヴィッヒ1世と似ているといわれますね。

海山:はい。ジャン・デ・カールの著書によると祖父のルートヴィッヒは孫と同じ8月25日に生れ、芸術庇護者であり、建築好きでした。彼はミュンヘンをイザールのアテネにしようとしていました。イザールというのはミュンヘンを流れドナウに注ぐ川です。孫は1845年ミュンヘン西方のニンフェンブルグ城で生まれました。

―父母はどんな人ですか。

海山:父マクシミリアン2世は学究肌で本の虫であり、母のマリア王妃はフリードリッヒ=ウィルヘルム王の姪であり、ホーエンツォレルン家出身でした。彼女は優しく、自然、特に山や花を愛しました。

―フリードリッヒ2世はワーグナーを庇護しましたね。

海山:彼は1861年にミュンヘンのオペラ座でワーグナーのローエングリンを見てその虜になります。序曲を聞き、神秘の騎士ローエングリンが白鳥に引かれゴンドラに乗ってブラバンの岸辺に到着するシーンになると感激に身を震わせたといいます。このようにして彼はワーグナーのパトロンになるのです。

―いつワーグナーに初めて会うのですか。

海山:フリードリッヒがオペラ座でワーグナーの歌劇を観劇して3年後の1864年です。当時ワーグナーは借金がかさみ、動きが取れない状態でした。王からの面会の要請が借金取りか警察かと疑って2度断わりますがそれが真にバイエルン王からの面会の申し込みと分かり電報で伺候する旨を伝えます。ワーグナーはこのようにして絶望と貧困から別れて栄光の道に進むのです。この後長期にわたり二人の親密な関係がうまれるのです。

海山先生(28)ミュンヘンに1ヶ月住む(2)

―ミュンヘンはバイエルン州の州都ですね。

海山栄:そうです。ミュンヘンは街自体が非常に住みやすく魅力的です。バイエルン州は歴史的に由緒があり、ドイツ帝国はプロイセン王国のビスマルクが主導権を握って1872年に成立しましたがビスマルクはバイエルン王国に気を使いました。

―バイエルン王国はヴィッテルバッハ家によって治められましたね。

海山:ヴィッテルバッハ家はオーストリアのハプスブルグ家、プロイセンのホーエンツォレルン家と共にドイツ語圏では有力な王族です。ワーグナーを庇護したルートヴィッヒ2世やフランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリーザベトはヴィッテルバッハ家出身です。

―マリエン広場は人気がありますね

海山:マリエン広場は1638年に広場の中心に建てられたマリア像にちなんで名づけられました。観光客に人気があり、新市庁舎の塔にある仕掛け時計が鳴る11時と12時にはこの広場には人でいっぱいです。ミュンヘンの古名は「ムニヘン」でこの名前が初めて登場したのは1158年で(鎌倉時代が始まる少し前)神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世がイタリア遠征に向かう途中だといわれています。ムニヘンの意味は「僧侶たちの里」でミュンヘンが修道院と関係が深いことが分かります。ミュンヘン市の紋章は右手にビールのジョッキを持った僧侶の姿が描かれています。ミュンヘンの街の繁栄をもたらしたものは広場を東西に貫く街道でした。交易品で特に重要だったのは岩塩でした。これはモーツアルトで有名なザルツブルグの大岩塩鉱山などからもたらされたのです。また南チロルや北イタリアのワイン、ヴェネチアからの絹製品、金銀やカットグラスも輸入されミュンヘンは13世紀ごろから繁栄したのです。だからこの辺は百貨店や有名な専門店が軒を連ねているのです。

海山先生(27)ミュンヘンに1ヶ月住む(1)

―1週間位でドイツを廻るパックツアーは何か物足りない感じがします。

海山栄:そのような場合、長期滞在をお勧めします。コロナ禍で毎年9月後半から10月前半までミュンヘンで世界最大規模のビール祭りが行われたいましたが今年は中止です。中止になっても有名なビヤホール(ホーフブロイハウス)に行ってその雰囲気を想像することができます。

―ビールといえばドイツですが日本にも関係がありますか?

海山:1886年(明治19年)日本で初めて札幌麦酒会社(現サッポロビール)が設立され、このビヤホールから翌年M・ボールマンが招聘され本格的ビールの醸造が始まりました。サッポロビールの宣伝文句にミュンヘン、札幌、ミルウォキーがありますがそれはビールで有名な都市を上げているのです。

―ミュンヘンを楽しむ他にここを根城にどこに行けますか?

海山:音楽の都でハプスブルク帝国の首都ウィーンはミュンヘンとほぼ同じ緯度の上にあり、ミュンヘンからインターシティ(IC)のモーツァルト号に乗って2時間半でザルツブルグに着きます。ザルツブルグだけを訪れ、モーツアルトの博物館だけを見るとすれば日帰りできます。ウィーン滞在したい場合は更に2時間半位かかります。ボンからウイーンにやってきたベートーベン、モーツアルト、シューベルト、ヨハンシュトラウスを偲には2泊は必要でしょう。

―チェコの首都プラハはドイツ人にしてみればドイツの一部の感覚と聞いたことがありますが?

海山:それはかつてハプスブルク帝国が支配した地域だからです。観光客でにぎわうカレル橋は神聖ローマ皇帝カール4世の統治下で建設が始まりました。彼はルクセンブルク家出身の皇帝でした。彼はプラハで生まれ、ドイツ語を話しました。プラハにミュンヘンから行くにはザルツブルグよりはるかに遠いですがミュンヘンからニュルンベルクベルクに行き、そこからプラハに行けます。

海山先生(26)高齢化と外国語

―ヨーロッパといえば国の数が多く、言語が多いですね?

海山栄:そうですね。しかしヨーロッパの言語の影響力は非常に強いです。

―それは二つの世界大戦以前はヨーロッパが世界の中心だったことの結果ですか?

海山:そういってもいいでしょう。国連の公用語を見てみますと英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語ですが中国語とアラビア語を除く4言語がヨーロッパの言語です。ドイツ語とかその他、この中に入っていない言語の愛好者がいます。ですからヨーロッパ旅行はこれらの言語のひとつあるいはそれ以上の言語ができるとより快適です。

―年を取ると記憶力が衰えます。定年退職以後ヨーロッパ旅行をする場合、ヨーロッパの言語ができない場合何か良い方法がありますか?

海山:9月21日は敬老の日でしたが総務省によると9月15日の時点での人口推計によると65歳以上は3617万人で総人口に占める割合は今年も増加して28.7%です。長生きには言葉を覚えるのが役立ちます。認知症になりにくいです。私は平易さと理念の点からエスペラントを提案します。

―英語やドイツ語のように多くの人に話されていないと思いますが。

海山:そうですがヨーロッパには1番多くエスペラントを話す人がいます。GCトラベルに問い合わせれば世界大会やヨーロッパ各地での様々な会合の情報が得られます。母国語の異なる人々と友人になれるのは非常に魅力です。ヨーロッパの言語ができる方はもう一つの言葉を自分の財産に比較的簡単に出来ます。

―どの位で覚えられますか?

海山:人によりますが、標準的には、英語は中、高、大学で学んだと思いますが英語の5文型を知っていれば1年間、忘れた人は2年間で世界大会に参加して外国人と会話ができます。

詳しいことはGCトラベルにお問い合わせください。

海山先生(25)ファウスト的欲望

―ドイツ人ゲーテが書いたあのファウストですね。

海山栄:ドイツに実在したと信じられている錬金術師ファウストをモデルとしてワイマールの政治家でもあったゲーテがほぼ一生かかって仕上げたいわれる作品が「ファウスト」です。

―ドイツ人がファウスト的欲望を持っているのですか?

海山:ドイツ人だけでなくヨーロッパ人は全般的にこの欲望がつよかったとハンガリー系ユダヤ人のジョージ・フリードマンはいうのです。世界に植民地をたくさん作る、世界から富をかき集める、そればかりでなく細菌のような小さなものから銀河のような大きなものまで所有したい、知りたいという妄想あるいは強迫観念が強かったといいます。

―今もヨーロッパ人はその欲望を持っているのですか?

―海山:あると思いますが一応そのファウスト的欲望は1913年で終わったとフリードマンは考えます。

―いつ始まりどうしてヨーロッパ人はその欲望が強かったのですか??

海山:始まったのはコロンブスがアメリカ到着した1492年です。ヨーロッパは寒く、作物の収穫の効率も悪く貧しかったのですが十字軍の遠征でオリエントの豊かさを見て欲望を刺激され、コロンブスによって欲望がファウスト的にまで高められたのでしょう。

―確かにコロンブスの時代から人類の生活の変化は著しくなりましたね。

海山:例外はありますがそう言えるでしょう。今コロナウイルス問題で我々には閉塞感があります。細菌が見つかったのは比較的新しいです。細菌の発見自体は17世紀の中頃ですが1859年にルイ・パスツールによってアルコール発酵は細菌によって引き起こされるとの発見があり、コッホによって細菌培養法の基礎が確立され,1882年には彼によって結核菌の存在が明らかになりました。ウイルスは1892年ロシアのドミトリー・イワノフスキーによって発見されました。このように人類は病気を防ぎ、直す方法を強めたのです。

海山先生(24)ペストで人間を信じる力が強まる

―コロナウイルスの感染が続いていますが似た現象がイタリア・ルネッサンス期にあったそうですね。

海山栄:そうです。14世紀に大流行したペストは感染すると皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍できるので黒死病と呼ばれました。モンゴル帝国によるユーラシア大陸でのグローバル化によってヴェネツィアやジェノヴァなどの都市は交易によって栄えました。しかし交易による交流はペストももたらしたのです。

―ペストによってキリスト教の力が絶対的でなくなったといわれますが。

海山:神に祈ってもたくさんの人が亡くなりましたからキリスト教を絶対視することが弱まりました。その表れが1353年に著されたボッカッチョのデカメロンです。ペストの感染を避けるために10人の男女が郊外に逃れました。退屈なので一人それぞれ10話、すなわち100話が語られています。

―ボッカッチョとはどういう人ですか?

海山:ボッカッチョはペトラルカやダンテを尊敬していました。フランチェスコ・ペトラルかは1341年ローマで桂冠詩人の栄誉を受けた詩人です。彼は古代ローマへの回帰を理想とし古代の文芸を甦らせようとしていました。ペトラルカはラテン語で詩を書き、ボッカッチョはダンテと同様に俗語といわれたイタリア語でデカメロンを書きました。

―ボッカッチョは反キリスト教だったのですか?

海山:完全にそうではありません。しかしルネッサンスは人間中心の世界観でこれが人文主義といわれます。ペトラルカはやボッカッチョはイタリア・ルネッサンスの先駆けとなった人です。

―レオナルド・ダビンチはルネッサンス最盛期の人ですね。

海山:そうです。ペストで神の力が弱まり科学が重要視されます。人文主義が強まりました。ダビンチは1498年に「最後の晩餐」を描きましたが彼は絵のために科学を研究したと言われます。ローマ人が尊敬したギリシャも関心を引くようになり、1511年ラッファエロは「アテネの学堂」を発表しますがこれはギリシャの哲学者、プラトン、アリストテレスなどが描かれています。ダンテの神曲に対してデカメロンは人曲といわれます。男女の不倫や聖職者の堕落など人間的な側面を書いていますからまさしく人曲です。

海山先生(23)語れる旅の枠組み

―海山先生は語れる旅こそ旅のだいご味と言われますが?

海山栄:人間は一人では生きられず色々な人との関連で生きています。その中で価値ある生き方が求められます。旅は日常を離れ、違った環境に身を置くため、新鮮な感覚が得られます。これを語る、語るための言葉を考えてみる。そうすると、ただ単に旅をするより、旅の体験が実になります。

―しかしうまく語れませんが?

海山:それでは海山流の語れる旅の枠組みについてお話しましょう。前もって①.語る事柄、テーマ決めておくのが望ましいのですがそれができなければ旅先で決めます。②.固有名詞はしっかりと覚えておくかメモします。③時代とか季節など、時に関する情報に留意する。

―もしパリに行ったら場合の具体例をあげてください。

海山:パリに三日いてシテ島とモネの庭に行ったとしましょう。①.語る事柄は、シテ島にある、ノートルダム寺院、モネの庭、エッフェル塔とします。②.会った人など、パリの友達など③.季節は夏✝ノートルダム寺院、8月5日で暑い日にノートルダム寺院をおとずれました。この寺院はゴッシク建築です。

ノートルダムのそばの庭園にはネムの木が赤い花をつけていました。このように話してヴィクトル・ユーゴ―の小説「ノートルダムの背むし男」の話とかセーヌ川にまつわる話、イギリスとの100年戦争の時、フランスを救った若き乙女、ジャンヌ・ダルクの復権裁判がこの寺院で行われたこと、英雄ナポレオンが1804年皇帝になった時の戴冠式がここで行われたなど。最近では2015年のパリ同時多発テロの追悼ミサが行なわれました。これらの事柄のうち一つか二つを話す.

✝モネの庭
パリ郊外にジベルニーという場所にモネの庭があります。この庭を訪れたとすればモネ、ピサロ、ルノワールなどの印象派の画家やゴッホは日本の浮世絵に関心を持ちその影響を受けたこと、モネは「水の庭」を造成し、日本から水連を輸入して根付かせ、日本風の太鼓橋や藤棚を作ったのでこれは日本庭園と呼ばれていることなどを話すとよいでしょう。エフェル塔については上記のように話してください。

海山先生(22) 隔離していたいくつもの文明が一体化する 

―グローバル化、グローバル化と叫ばれますが今のグローバル化の推進者は誰ですか?

海山栄:今はアメリカが中心です。グローバル化を最初に行ったのはアジア人であるモンゴル帝国です。

―南北アメリカはそれには含まれていますか?

海山:含まれていません。その点では1492年のコロンブスのアメリカ大陸への到着が地球一体化の達成に大きく貢献しました。

―コロンブスはグローバル化を意識しましたか?

いいえ。彼はアジアにジパングという国があり、そこには[金]がたくさんあるのでこれを得て富豪になりたい一心で航海に出てアメリカについたのです。結果として南北大陸を含む真の意味でのグローバル化を推し進めることになりました。

―ヨーロッパ文明との接触はアメリカの原住民やアジアの人々に良い結果をもたらしましたか?

彼に資金を出したスペインやその前からアジアに行くことに意欲を燃やしたポルトガルは世界各地に進出しました。スペインはアステカ帝国やインカ帝国を滅ぼしてしまいます。現地住民にとっては大きな厄災でした。そして彼らの後にオランダ、フランス、イギリスが続きますがアジアやアフリカは植民地化されます。

―ヨーロッパ以外の文明はどうなったのですか?

海山:アステカ文明やインカ文明は滅び、中国、インド文明は、日本文明などは隔離されそれぞれが独自の発達をしたのですがヨーロッパ文明との接触によって他の文明を意識しなければならなくなりました。イギリスと中国のアヘン戦争にみられるようにアヘンの輸入の禁止はあの大国清も自ら決定できなくなりました。徳川幕府は成立当初は独自に鎖国を決定しましたが1953年のペリー来航の時はいやいや鎖国を止めなければならなくなりました。ヨーロッパ文明は他の文明の人々の大きな影響を与え、孤立はほぼ不可能となりました。しかし電気、鉄道、映画、新聞、テレビ、自動車、航空機、病気の予防、コンピュータなどはほとんどヨーロッパ文明の貢献を受けています。

ー今はコロナウイルスの影響でヨーロッパに行けませんがヨーロッパは旅行すべき地域ですね。

海山:日本の将来とか世界の人々が今後どう暮らすかを考えるうえで非常に重要な旅行先といえるでしょう。

海山先生(21) アジア人が最初にグローバル化を行った

-人類の歴史で最初のグローバル化を行ったのはモンゴル帝国ですか?

海山栄:そうですね。アジア人が最初にグローバル化を行いました。ユーラシア大陸に広大な帝国を築きました。東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、アフガニスタン、ミャンマー、中国、朝鮮、モンゴル、ロシア、などです。モンゴル帝国を人類の歴史の中でより深くその価値を見なおして見る必要があります。今年は遊牧民と関係の深い梅棹忠夫の生誕100年です。

―梅棹忠夫とはどんな人ですか?

海山:彼は生態学者、民族学者でエスペランチストです。理系から学問を始めましたが歴史や文明に詳しいです。1957年中央公論に「文明の生態史観序説」を発表しました。非常にユニークな見方をしてヨーロッパと日本はユーラシア大陸の東と西の端にある。16世紀までほとんど交流はなくそれぞれの歴史を歩みましたがその発達の結果は非常に似ていると述べています。

―どんな点が似ていますか?

海山:ヨーロッパと日本には封建時代があり、君主のもとにいる諸侯が土地を有してその土地の人民を統治します。君主は土地の保護、すなわち防衛をします。諸侯たちはこの権利を君主から得ますがその代わりに貢納(貢物を収めること)や軍事奉仕が義務づけられています。諸侯に仕えるのが騎士で日本の江戸時代には幕府から禄(収入)を与えられた藩主である大名と藩士である武士が存在しました。

ー梅棹忠夫のユニークさはどこから来たのですか?

海山:驚いたことに彼は太平洋戦争が終わった年に半独立国家の蒙古自治邦の首都、張家口にいました。張家口は現在中国の河北省に編入されていますが彼はここでモンゴルの牧畜の研究をしていました。ソ連軍が攻めてきたのでそこから苦労して貨車に乗り北京を通り、4日後に天津にたどり着き奇跡的に無事に日本についたということです。モンゴル高原は世界最大の大草原ですがそこで活躍した遊牧民やその牧畜の研究と彼の師である今西錦司などの影響から独特な理論が生まれたと思われます。

海山先生(20)
コロナ禍とグローバル化

―旅は情報を得るるためですか?

―6月19日に県境を越える制限が解除されましたがまだ外国には自由にいけません。グローバル化はコロナ禍によって逆戻りするのでしょうか?

海山栄:そうとはいえないと考えますがコロナ後の世界はずいぶん変わると思われます。コロナ禍といえばユーラシア大陸で最初にグローバル化に成功したモンゴル帝国を思い出します。しかしグローバル化は人の往来を盛んにしますから病気も伝染しやすくなります。モンゴル帝国の衰退の一つの原因は中央アジアで発生したペストといわれています。

―東方見聞録を書いたマルコ・ポーロの描いた元や大都(現在の北京の近く)をはじめとするモンゴル帝国のことですね。

海山:そうです。マルコ・ポーロはヴェネチアの商人でモンゴル帝国の第5代皇帝クビライに仕えヴェネチアに帰国して東方見聞録を書いたといわれます。このクビライのとき、モンゴル帝国は東は日本海の沿岸から西はドナウ河の河口、アナトリア、東地中海沿岸まで広大な領土を支配し、当時の世界であるユーラシア大陸のグローバル化をもたらしたといわれます。南北アメリカを含んでいなかったので真のグローバル化はヨーロッパ人が達成します。

―マルコ・ポーロの東方見聞録に刺激された大航海時代が始まったのですね。

海山:そうです。ヴェネツィア共和国の初代元首は497年に選ばれます。1797年にナポレオンに滅ぼされるまで続きます。ローマ帝国は395年に東西に分裂して西ローマ帝国はすぐ滅びますが東ローマ帝国は1000年以上続きます。その東ローマ帝国と貿易を行い繁栄したのがヴェネツィアです。ビザンツからの商品やアジアからのかさばらない絹布や香辛料をヨーロッパ各地に売りさばき大きな利益を得ます。

―これをうらやましく思ったのがポルトガルですね。

海山:そうです。1415年ジョアン1世の命により北西アフリカのセウタを攻略してインドへの第1歩とし、1460年カナリア諸島などを探検してシェラレオネまで進出、1488年ディアスはアフリカ南端の喜望峰まで到達した。そして1498年ヴァスコ・ダ・ガマはヨーロッパ人として初めてインドのカリカットに到着しました。翌年香辛料を手に入れてポルトガルは長年の望みを達成します。

―スペインはコロンブスにより、ポルトガルよりは早くアメリカ大陸に到達しますね。

海山:ポルトガルは早くからインドを目指しましたがライバルのスペインは女王イサベルがコロンブスの売りこみの計画を採用し逆転を目指し、これが成功しました。このようにしてユーラシア大陸を舞台とする陸のグローバル化はヨーロッパ諸国の海のグローバル化へと進みます。今回のコロナ禍もグローバル化の形を変えることになるでしょう。

(次回は7月5日、モンゴルについての予定)

海山(19)
人生は100年時代――「語れる旅」をしよう―ー

―旅は情報を得るるためですか?

海山栄:旅に対してはいろいろな要素があります。広い意味ではそうですが私は補助の道具として本があると思います。これを上手に組み合わせることが旅の意味を高めると考えます。最近、[還暦からの底力―歴史、人、旅から学ぶ」という本を出した出口治明氏はこれ等3要素から学んだ割合は,人から25%,歴史=本から50%,旅から25%といっています。

―出口治明氏とは現在、立命館アジア太平洋大学学長のことですか?

海山:そうです。彼は非常にユニークな経歴を持っています。京都大学法学部出身で最初日本生命に入ってサラリーマン生活をし2008年60才の時にライフネット生命保険会社を創業して会長になり、立命館アジア太平洋大学が学長を公募したので応募して学長になった人です。普通の人の3倍の人生を生きたような人です。

―海山さんも本が5割派ですか?

海山:私は本からの情報を重要視していますがあくまでも本は補助の道具です。楽しみとしての旅、研究のための旅、ビジネスのための旅がありますがここでは長生きをして人生を楽しむという点で語れる旅を話したいです。

―語れる旅には話す相手が必要ですね。

海山:本をたくさん読んでいるがそれをぜんぜん語らない、あるいは語れない人がいます。非常にもったいないと考えます。語れる旅をするためには親族が中心と思われますがよい友達、あるいは何かのサークルなどが望ましいでしょう。ですから豊かな人生は、人・本・旅が融合して一体化しています。

第18パンデミックについて

―コロナウイルスによるパンデミックによって近頃、「人生100年」の次代といわれましたが、それは終わりでもう人間は100歳まで生きられませんか?

海山:私は専門化ではないのではっきり終わりと断定できませんが影響は受けると思います。ある人は剣と槍、鉄砲やダイナマイトよりもペストやスペイン風邪の流行のほうがその影響は大きいといっています。しかし一時的に平均寿命の伸びはなくなるかも知れませんが長期的には、「人生100年」は終わりではないと考えます。

―どうして人間の寿命は伸びたのですか?

海山:第2次世界大戦は1945年に終わりますがそれ以降大国間に戦争はありません。そのお陰で明治以降、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、1914年の第1次世界大戦、1931年の満州事変、1937年の日中戦争、1941年の第2次世界大戦と戦争の連続から戦争のない時代となりました。平成時代は戦争のない時代でした。これが1番の原因です。

―経済的に戦後豊かになったのもその原因ですね?

海山:そうです。長生きには3つの要素が重要です。第1が栄養ですが、バランスの良い食事が重要です。和食的要素は長生きに良いようです。第2が体を使うこと、すなわち運動ですが散歩が手軽です。第3は社会的要素、人との交流とか新しいことを知ったり、語ることです。我々が意図している「語れる旅」は楽しさと脳をつかうことが共存しています。上記3つの要素と健康に関しては医学の発達と[健康保険」制度です。

第17普通の人でもテーマを持つ

―コロナ危機で旅にいけません。牢獄にいるような状態なので一犯一語として語学をマスターした大杉栄は面白いと思います。語学以外には何をすると良いですか。

海山栄:テーマを持つのは専門家であるコンサルタント、科学者、作家、芸術家などだけと思われますが普通の人、素人でもテーマを持つのをお奨めします。

―どうしてテーマを持つのが良いのですか?

海山:良い旅は楽しいということが重要ですがそのためには記録することが必要です。写真にとるとか書いておかない忘れてしまいます。テーマがあると常にそのテーマで記録しておこうと考えることができます。

―テーマといえば絵画とか音楽などですか?

海山:それももちろん良いですがロマネスクとかバロックに関連する絵画、音楽、建築、文学などをヨーロッパのいろいろな国で調べる、実際に見るなどできます。

―現在のヨーロッパとか第2次世界大戦以前のヨーロッパを知るテーマもありますね。

海山:テーマは多様ですが「鉄道」とか「ユダヤ人とヨーロッパ」、「ヨーロッパに住むイスラム人」などもヨーロッパを知るには興味深いです。

第16回大7回 パンデミック

―パンデミックとは何ですか?

海山栄:パンはすべて、デミックは人々というギリシャ語で、ある特定地域ばかりでなく世界的に流行する感染症を言います。今世界中に流行している新型コロナウイルスはパンデミックです。

―有名なパンデミックには何がありますか?

海山:第1次世界大戦が終わった1918年から始まったスペイン風邪や中世のペスト(黒死病)があります。パンデミックは人の移動が世界的に成ると起きます。

―海外旅行が流行の大きな原因ですね?

海山:クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス』号は乗客・乗員約3700人乗せ、アジアをめぐり、横浜に2月4日に到着しましたがこの関係の死亡者が4月15日現在13名です。この例とか航空機で帰国した人によってもたらされたケースがあります。中世のペストは中国がモンゴル人の帝国、元の時代に交易が盛んになり、ヴェネチアの商人が中国の大都(現在の北京)にいって働いて、インドを経由してイタリアに帰ったりしましたがこのようなことで ヨーロッパ全域に感染症が流行したのでしょう。スペイン風邪は第1次世界大戦の兵士の移動が原因といわれています。

―それでは人の移動は悪ですか?

海山:そうとはいえません。貿易はお互いに利益になります。また新しい考えやノウハウも人の移動によって異質のものの出会いがもたらせるのです。コロンブス以降、アメリカインディアンが作っていた、トマト、ジャガイモ、トウモロコシによってわれわれの食卓がいかに豊かになったかを考えれば人の交流のメリットの大きさが分かります。

―移動ができず牢屋に入ったようなです。これで発展は停滞しますね。

海山:企業は売り上げが伸びず、利益は停滞します。研究機関は移動できないため、調査には支障が出るし、知的進歩も伸びが低下するでしょう。しかし大正時代のアナーキスト、大杉栄は政治犯として逮捕されると一犯一語として語学をマスターしたそうです。こうしてエスペラント語、イタリア語、ドイツ語を習得しました。コロナ危機は一種の牢獄のようなものです。GCトラベルは「旅の言葉」としてエスペラントを薦めています。

―どうしてエスペラント語は「旅の言葉」ですか?

海山:エスペラントはこれだけでヨーロッパ各国の人と話せます。我々は『語れる旅」を一つの目標としています。自然や街や交流を孫に、友達に、ゼミの友人に語るのですがドイツで、イタリアで現地の人と話して得た情報は新鮮でユニークですから牢獄的コロナ危機を活用して語学力をつけるのが『語れる旅」を強力にします。

第15回始まりと終わり

―20世紀の終わりは余り騒がれませんでしたが19世紀の世紀末はいろいろと取り上げられていますね。

海山栄:そうですね。19世紀はヨーロッパの全盛期でした。我々は生まれてそして必ず死にます。始まりがあれば終わりがあるのです。19世紀末のヨーロッパ人はその繁栄に酔いしれていました。しかしこれは永遠に続くと思うと同時に崩れるのではないかと一抹の不安に駆られていました。芸術が輝くとともにデカダンスの部分もありました。

―世紀末はどこの何がキラキラとした光を放ったのですか?

海山:宮下健三氏は「ユーゲントシュティール」(青春の様式)というドイツのミュンヘンの世紀末の芸術運動をとりあげました。フランスの世紀末はミュシャのポスター、ロートレックの絵画、ガレのガラス花器で有名でアール・ヌヴォーといわれています。ウイーンのそれはクリムトやエゴン・シーレの絵画、オットー・ワーグナーの建築などはゼツェシオンとして知られています。ロンドンでは「アーサー王の死」や「サロメ」のシリーズで知られるオーブリー・ビアズリーが世紀末を代表する画家です。

―都市を中心とした芸術運動ですね。

海山:上にあげたようなヨーロッパの都市はどこも人口が急増しています。例えば19世紀の始めのロンドンの人口は110万人だったが世界で初めて万博があった1851年は270万人でしたから世紀末には300万を超えていたでしょう。バイエルンの首都ミュンヘンは1895年には41万人だったが1905年には54万人になりました。

―なぜそのようになったのですか?

海山:18世紀末にイギリス始まった産業革命がヨーロッパの国々に普及していったからです。そのためには交通機関が重要ですがイギリスでは1830年にリヴァプール~マンチェスター間で鉄道が開通し、ドイツではその5年後の1835年にニュールンベルク~ヒュールト間が開通しました。ミュンヘンの場合は1850年です。ベルリンが注目はあびるのは第1次世界大戦後でそれまでミュンヘンは芸術が栄え、この空気の中でトーマス・マンはハンザ都市リュ-ベックからミュンヘンに移り住みました。リューベックで書き始めた「ブッデンブローク家の人々」を1901年ミュンヘンで書き上げました。これがよく売れ、27歳にして作家として出発できました。

―世紀末の都会としてはパリが飛びぬけていますね。

海山:そうです。1887年から建設が始まったエッフェル塔は1889年に完成しました。これはフランス革命100周年を記念して建てられたものです。ワルシャワからのキューリー夫人のようにヨーロッパ各地からパリの文化をしたって多くの文化人が集まりました。

―世紀末の不安が現実となったのが第1次世界大戦ですね。

海山:シュテファン・ツヴァイクの「昨日の世界」はそれをよく表しています。

第14回語れる旅で孫と過ごす

―カナダはイギリス連邦の一員ですがイギリス最盛期のヴィクトリア女王の時代に独立したのですか?

海山栄:はい。ヴィクトリア女王の時代が始まったのは1837年ですがカナダの独立は1867年ですから女王即位から30年経っています。1760年頃から始まった産業革命が進み、鉄道も全国に敷設されてイギリスを中心としたヨーロッパが繁栄しました。孫が男の子の場合、ほとんどが鉄道や航空機が好きですから、カナダ、イギリスに旅した経験を語ることが好ましいです。例えば万国博覧会です。2025年には大阪で4月から半年間万博が行なわれます。

―世界最初の万国博覧会が行なわれたのもイギリスですね。

海山:蒸気機関を利用してスティーブンソンが1825年に人を乗せて試験的に蒸気機関車を走らせたのが成功しました。その結果、1830年に旅客鉄道としてマンチェスターとリヴァプール間に最初の鉄道が開通したのです。そしてほぼイギリス全土に鉄道が敷かれたので万博がロンドンで行なわれ約600万の人を集めることが出来ました。外国からも多数の人々が参加し国際的交流のきっかけにもなりました。

―博覧会はそれまでなかったのですか?

海山:フランスでは1789年にフランス革命が起こり、ゴブランつづれ織、セーブル産の陶器、カーペットなどが売れなくなり、職人の生活が貧窮に陥ったのを救うために1798年に盛大な商品市を開いて成功したのをきっかけとしてこのような産業博覧会が開かれるようになったといいます。1801年の第2回のパリ博覧会において審査員によって陳列品の評価を行い、金、銀、銅のメダルを制定して与える制度が出来ました。オリンピックはこの万博の制度を採用したのです。

―最初の万博がフランスではなくイギリスのロンドンで開かれたのはなぜですか?

海山:ヴィクトリア女王の夫君アルバート殿下の役割は大きかったと思われます。松村昌家の水晶宮物語によれば、彼は最初は国内博覧会だけを考えていたのですが紅茶セットのデザイン家として優れた腕前の持ち主であったヘンリー・コールがアルバート殿下にさまざまな国からのパヴィリオンからなる万博を提案したといいます。コールは産業デザインの開拓者として『デザインと製品」という雑誌の編集を行なっていて、クリスマス・カードの発案者でもあったといいます。1849年のパリでの博覧会には北アフリカの植民地の国々からの参加があったのを見て、フランスからの出品も勧誘しよう、ドイツ、ロシア、アメリカからもと万博の構想が膨らんだようです.アルバート殿下もドイツ人でしたから大賛成して実現しました。

―水晶宮の名前の由来は?

海山:どのような建物を建てるかということは難題でしたがパクストンという庭師あがりの建築技術者がいました。彼は大温室を建て、ヴィクトリア女王という名前の睡蓮を育てた経験を持っていました。ガラスがかっては貴重品でしたがこの頃は工業的に安価になっていて、彼の設計はこの万博の実行委員会の委員長であったあの最初の旅客鉄道を走らせたスティーブンソンも夢中になったのです。ガラス張りと鉄柱の建物構想は明るくて見栄えがよく建築の手間も省けて費用も安いという特色がありました。そしてクリスタル・パレス、すなわち水晶宮という名前になったのです。

第13回コロナウイルスの影響

―コロナウイルスによる肺炎の影響で旅行にいけませんが

海山栄:このような時は旅行したい地域や国の歴史を知ったり、小説を読んだり映画を見たりすることをお勧めします。例えばイタリア旅行を予定していた場合、塩野七生の著書などを読むとよいですね。

―よくイタリア料理のサイゼリヤに行きますが店内にあるボッチィチェッリィの「春」やダヴィンチの「受胎告知」をみてイタリアに興味を持ちました。

海山:ヨーロッパが世界の中心になったのはルネッサンスがイタリアから始まったのが一つの要因でしょう。そして花という意味のフィレンツェですね。フィレンツェの繁栄はメディチ家に関係し、芸術は保護されました。上記の「春や受胎告知」はフィレンツェのウフィッツィ美術館で見られます。ですからルネッサンスやフィレンツェ、メディチ家に関することを読むといいでしょう。

―コロナウイルスが発生した武漢は中国にあります。中国は経済などでアメリカに猛烈に追いつこうとしていますが世界の中心はアメリカです。そのアメリカはよくかつてのローマ帝国のようだといわれます。

海山:それではローマ人の物語がよいですね。

―ローマ人の物語は15巻もあり、ちょっと読むのが大変です。

海山:そのうちのユリウス・カエサルの第4巻ルビコン以前と第5巻ルビコン以降などの2巻を読み、気力が充実したら他の巻も読めばと思います。この2冊もかなりのヴォリュームがありますがさきごろ亡くなった渡部昇一と本村凌二の対談形式の「国家の盛衰」のローマ帝国の部分とイギリス、アメリカ、中国などの部分を読むとどのような国が世界の中心となるのか、すなわち覇権を握るのかがわかります。

第12回価値ある情報の集積した博物館

―博物館は語れる旅の海山流キ-ワードには入っていませんね。

海山栄:博物館はパリやロンドンなど街にあります。価値のある過去の収蔵物が博物館にはあり、冠婚葬祭の葬は死や墓を意味し過去そのものです。今ある文化や歴史は過去に活躍した人によって多くが作られています。

―具体的にいいますと

海山:われわれの生活は政治、経済、文化など亡くなった人の業績に依存しています。例えばスチーブンソンの鉄道、ライト兄弟の航空機のように発明した人は生きていません。しかし語れる旅に特に役立つ鉄道、遠くに素早くいける航空機によってわれわれは旅を楽しんでいるのです。学問も宗教も現在あるのは過去からの情報の大きな蓄積によるのです。大英博物館を見てみましょう。

―それはいつ設立され、どの位の収蔵物があるのですか? 海山:それは1759年に設立され、そこには約700万点の収蔵物があり10部門に分かれています。先史・古代ヨーロッパ部門は約250万点、版画・素描部門が約250万点でその他が200万点です

第11回語れる旅,列車の旅(2)1月26日

―海山先生は前回、語れる旅のキーワードとしてGCトラベルのモットーからとりましたね。

海山:はい。その前に語ることは重要ですが対話的に語ることをお勧めします。

―対話的に語るというのはどうゆうことですか?

海山:語れる旅とは内容豊かな旅ということです。しかし豊かだから語りすぎる、喋りすぎる可能性があります。

―話し相手がなかなか反応しない場合はどうするのですか?

海山:例えばドイツの列車の旅でライン河について話す場合、ライン河は男性名詞ですか女性名詞ですかと聞き手に質問します。答えはイエスかノーですから簡単に対話できます。父なるラインとか母なるドナウといいますから河にでもドイツ語では男女の区別があるのとか日本語との文化の相違について語ることができるでしょう。このような質問をいろいろ考えるのも楽しみの一つであると考えられます。

―それでは街と人々との交流のキーワードをお願いします。

海山:「世界の自然を愛し」のキーワードは「山川草木」でした。街は「冠婚葬祭」です。冠は元服の儀式を言いますが成人式とか若者、イギリスに旅行するとすれば、エリザベス2世の戴冠式、王室そして政治を語る。婚は結婚ですから旅先の国とか会った人の男女問題、親子、子育てについて葬は死とかお墓について、祭は音楽、芸術、オリンピック、万博など。世界の人々との交流は「衣食住、言語」ですから衣はファション、食はグルメ、お酒、住は建築、寺院とか教会、言語は旅において、外国で使った言葉などを話せばいいでしょう。もしも特にこれ以外のテーマがあればどれかにか付け加えればよいと思います。

第10回語れる旅、列車の旅(1)

―海山先生は列車の旅を語れる旅の大きな要素にしていますね。

海山栄:明治維新前後からヨーロッパに日本人は行くようになったのですが船旅でした。漱石、鴎外、藤村など。日本が満州に進出するようになり、シベリヤ鉄道が開通して林芙美子はこれを利用しました。横光利一は往きは船旅で帰りはシベリア鉄道でした。今はヨーロッパに行くにはほとんど航空機です。

―語れる旅とはどんな旅ですか?

海山:航空機は速さという点では非常に優れています。しかし景色が離着陸のときしか見られません。徒歩は日本からでは時間がかかりすぎます。だから航空機でヨーロッパに行って着いてから列車を利用するのが語れる旅には最適でしょう。

―旅ではたくさんの事物に触れ、いろいろな人に出会います。情報が多くてうまく語れるでしょうか?上手に整理できて、楽しく語れる良い方法がありますか?

海山:それでは海山流の秘訣をお知らせしましょう?語れるためにはGCトラベルのモットーを利用するのが賢明です。そのモットーは[世界の自然を愛し、街を愛し、世界の人々と交流する」です。自然では「山川草木」を街では[冠婚葬祭」を人々との交流では[衣食住と言語」をキーワードとしましょう。

―キーワードーの一つ自然の「山川草木」とは何ですか?

海山:自然を愛しでは「山川草木」を想いだします。山なら列車でリヨンを通るとモンブランが見えます。モンブランについて語る。また鉱山とか鉱物などの資源も山のキーワードに含めましょう。川は日本では河川はすべて日本の国内を流れています。しかしヨーロッパでは二つ以上の国を流れている川がたくさんあります。ロシアを除いてヨーロッパの2大河川といえばライン河とかドナウ河です。二つの大河はスイスを源流としています。ドイツならローレライで有名なライン河ですがケルン、ボン、コブレンツなどを通る特急のインターシティ(IC)を利用すれば車窓からライン河が眺められます。ライン川はスイス、リヒテンシャタイン、フランス、ドイツを通り、最後にオランダのロッテルダムで北海に注ぎます。川というキーワードには水に関連することを含めましょう。北海や大西洋は海ですから川のキーワードです。草はハーブとか花,水仙、チューリップ、グラジオラス、マロニエの花、木は白樺、プラタナス、樫、菩提樹、マロニエです。街のキーワードの「冠婚葬祭」、人々との交流は「衣食住と言語」ですがそれは次回にします

第9回ワルシャワに住んだ3人の天才

―第2次世界大戦はドイツのポーランド攻撃から始まりましたね?

海山栄:そうです。ポーランドは強国に囲まれ、何度も不幸な目にあいました。その首都にワルシャワに住んだ有名な3人についてお話しましょう。一人は音楽家でピアノの詩人といわれ夜想曲やワルツを作曲したフレデリック・ショパンです。彼はワルシャワの近郊のジェラソヴァ・ヴォラに1810年に生まれ現在ワルシャワ大学の建物のある場所に住みました。女性で初めてノーベル物理学賞と化学賞の二つを受賞したマリア・スクウォドフスカ=キューリーは1867年市内で生まれました。最後の一人は世界共通語エスペラントの創始者ルドヴィーコ・ザメンホフです。

ショパンは21歳、とキューリー夫人は24歳のとき活躍の舞台を求めてパリに移住しました。ザメンホフは1859年北の都市ビアリストックに生まれましたが14歳のときワルシャワに移住し亡くなるまでワルシャワに住みました。 ―ショパン・コンクールはどうして始まったのですか?

海山栄:このコンクールは1927年ショパン高等音楽院教授イェジ・ジュラヴレフによって創設されました。彼はサッカーに熱狂している若者を見てスポーツのようにピアノに熱狂するピアニストを育てることを願ってショパン・コンクール始めたといわれています。5年に一度行われ2015年に第17回コンクールが行われました。応募者が多いため予備選で合格した人が本選に出場します。日本からは1965年の第7回コンクールに中村紘子が第4位で、1980年に第10回では海老彰子が5位で入賞しています。

―キューリー夫人がワルシャワにいたときにはポーランドは独立していましたか?

海山栄:いいえ、ポーランドは1918年に再独立しましたが、キューリー夫人は1891年までワルシャワにいました。当時はロシア帝政下でした。彼女はフランス人のピエール・キューリーと結婚したので日本ではキューリー夫人として有名です。祖国のことは忘れず初めて発見した新元素にポーランドの名前にちなんだポロニウムと名づけました。

―ルドヴィーコ・ザメンホフはユダヤ系ですか?

海山栄:はい。第2次世界大戦はドイツがポーランドを攻撃することで始まりました。ナチスはザメンホフ家のそばにゲットーを作りユダヤ人を集めました。ザメンホフ通りがありゲットーのユダヤ人が蜂起した英雄記念碑が建っています。またヨーロッパ最大のユダヤ人墓地があります。北のアウシュヴィッツであるトレブリンカで孤児たちと一緒に亡くなったコルチャック先生やザメンホフもそこで眠っています。アインシュタイン、マルクス、フロイド、チョムスキーなどのユダヤ人は人類に大きな影響を与えました。

第8回イタリアの魅力

―イタリア旅行の希望者が多いのですが何が引きつけるのでしょうか?

海山栄:近代を切りひらいたのはヨーロッパですがそれはイタリアでルネッサンスが始まったからです。ルネッサンスは再生という意味ですがそれは中世の「キリスト教だけを中心とした生き方」からギリシャやローマの時代の精神に帰ろうという文化的な運動です。 人間性を解放し、合理主義に従うという時代的な風潮です。その基礎は貿易や金融業で商人たちが活躍し、都市における経済的繁栄です。フィレンツェ、ヴェネツィアが代表的です。

―ルネッサンスといえば当時の絵画ですね?

海山栄:絵画だけではなく、彫刻、建築、文学、工芸、デザインなどが重要ですが絵画は強い印象をあたえます。その代表はフィレンツェです。ここで15世紀の中ごろから政治を支配したメディチ家が政治を支配し、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロが活躍しました。有名なヴァザーリの設計のウッフィツィ美術館にはボッチィチェッリの「春やヴィーナスの誕生」、ミケランジェロの「聖家族」、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」等があります。「神曲」を書いたダンテはラテン語ではなくイタリア語を重んじましたが英独仏でも自国語を重んじるようになった先駆けです。

―ルネッサンス人はローマ帝国をどのように考えましたか?

海山栄:イタリアにはローマ帝国の遺跡がいたるところにあります。ローマがローマ帝国の首都だったのでダンテをはじめルネッサンス人は自分達の先祖としてローマ帝国を追憶し、賛嘆しました。ですからコロセウム、カラカラ大浴場跡、パンテオンなどローマの遺跡をみてヨーロッパ人がローマを心の故里としていることが理解できます。例えば、憧れのイタリアについてゲーテは「イタリア紀行」を書きましたし、アンデルセンは「即興詩人」(鴎外の訳)を著しました。

―キリスト教はローマ時代に広がったのですね?

海山栄:ローマ市にはカトリック教会の総本山バチカン市国があります。キリスト教はローマ皇帝ネロがしたように迫害されましたがコンスタンティヌス帝は公認し、テオドシウス帝は392年にローマの国教にします。キリスト教はヨーロッパに広がっていきます。バチカンにはシスティーナ礼拝堂にミケランジェロの「天地創造」や「最後の審判」、ラファエッロの「アテネの学堂」はバチカンの署名の間にあります。

第7回、旅とヒット商品

―バスチーというローソンのヒット商品は旅から生まれたのですか?

海山栄:多分、そうでしょう。バスチーというのはバスク風チーズケーキという意味と考えられますが10年に1度のヒット商品といわれています。このオリジナルスイーツはローソンの業績に大きく貢献しています。今年3月から発売され2千数百万個売れたようです。

―バスクという国はあるのですか?

海山栄:バスクという国はありませんがバスク語を話すバスク人はスペインとフランスに跨って住んでいます。サン・セバスティアンは美食の町として知られています。スペインでのミシュランの3つ星レストラン8軒のうち4軒がサン・セバスティアンとその周辺にあります。

―ベレー帽はバスク地方の象徴ですね。

海山栄:そうです。フランスの画家といったイメージです。バスク地方に広くかぶられていてナポレオン3世がバスク地方を訪れたときバスク・ベレーといったのでこれが世界に広まったという。日本に最初に訪れた西洋人ががキリスト教を普及しようとやってきたポルトガル人ですがその中の中心人物フランシスコ・ザビエルはバスク人です。

第6回 エスペラントでの次のステップと大学や討論レベル

―エスペラントが容易ならば、どのように初級の次のステップを展望することができますか?

海山栄:世界エスペラント大会は今年7月20日からフィンランドで開かれましたが、簡単なことが喋れるようになると中級の会話のクラスがあります。次の講演を思い切って聴くのもよいとおもいます。「ビールと健康」とか「人はタバコになぜ依存するか」、「フィンランドの自然」これら、ビール、タバコ、自然は内容が推測できるのでよいでしょう。

―内容が大体わかっていると理解が容易になりますが、以上の講演などの概要がわかりますか?

海山栄:参加者は大会案内という小冊子(2019年度112ページ)を受け取ります。「ビールと健康」の例ではH.Schickeという「ドイツのビールと文化」という著書があるドイツ人が他の飲み物に比べビールの健康に良い点の概要を述べている。すなわちビールの色、泡、味わい、香りなどの点や健康に良いビールの材料はとは何かなど。

その他、大会期間中、いつ、どこで、何が行われるか、人物の紹介、参加者の名簿やe-メールなどのたくさんの情報がかかれています。

―上級レベルでは何が可能ですか?

海山栄:大会大学という大学や大学院レベルの講義を聴くことができます。また大会のテーマがあり討論に参加できます。今年は「生き生きとした自然、花咲く文化」というテーマです。科学の発展とグローバル化は著しいが、自然破壊の問題、少数言語が滅んでいく問題等について議論が行われました。このようなレベルになれば大学や大学院での論文の資料が得られます。

第5回やさしい言葉、エスペラントの話す機会

――定年退職後の言葉としてエスペラントの世界大会を紹介されましたがその魅力は?

海山栄:エスペラントは1年間の学習で世界大会に参加できます。言葉がやさしいからです。大会では講演、大会大学、遠足、儀式、コーラス、演劇、コーラスなどすべて通訳なしで行います。これが50以上の異なる言語の出身者が平均2000名参加して行われます。 ――初心者が参加できるプログラムは何ですか?

海山栄:あまり知られていない驚異的な言葉、エスペラントは外国人との交流に最適です。初心者のためにエスペラントが上手に喋ることができるようなクラスがあります。大学や大学院で言語教育を受けた一流の講師が教えます。半日観光や1日観光が市内や郊外場合によっては国外にまで足を伸ばす観光プログラムがたくさんあります。ほとんどバスで隣は外国人ですから自由に喋れるし、複数の国に友達を作るのが簡単にできます。コーラスやコンサート、フランスの夕べ、ポルトガルの夕べなど開催国のプロの演技者による歌、踊りの披露や晩餐会、ダンスパーティーもあります。

――孫も連れて行けますか?

海山栄:十分可能です。10歳、すなわち小学校4年生ごろに日本語の能力が確立しますから元気な子供でしたら子供大会がお勧めです。子供大会のプログラムは世界エスペラント大会とは別に組まれています。

第4回 旅と言葉 

――現地の人と話したいですがもう65歳ですからドイツ語を始めるのは大変です。

海山栄:私は定年退職後に現地の人とコミュニケーションしたいのならエスペラント語をお勧めします。桜美林大学名誉教授の大庭篤夫氏が考案したオオバ・メトードで学習すれば1年間で外国人と会話ができます。英語の5文型を知っているという条件ですがそれは中学で学習した知識で驚くべき速さで会話できます。

――どうしてそれが可能ですか?

海山栄:文法は例外がありませんし、母音は5つですので日本語に近いです。私はエスペラントをマスターしてから英語も話せるようになる人も大勢います。ヨーロッパに多くのエスペランティスト(エスペラント語を話す人)がいますが近頃アジアでも普及してきました。エスペラント語ができればドイツでもフランスでもイタリアでもポーランドでも友達ができます。

――話す機会がありますか?

海山栄:世界エスペラント大会がお勧めです。昨年はポルトガルのリスボン、今年はフィンランドのヘルシンキ近くのラファティー、来年はカナダのモントリオールで行われます。 新しい楽しみ方、魅力は次回お話しします。

第3回 

――旅は健康長寿によいですか。

海山栄:もちろん、よいです。定年退職は時間ができますから人生で1番よい時期になります。あたかもフランス貴族のようです。しかし人によっては社会とのつながりを失ったり、生きる目的がなくなるというリスクがあります。ですから旅が健康長寿につながることが望ましいです。 ――旅の効用を生かすにはどうすれば良いですか。

海山栄:最初の例はグリム童話に関係した訪問先でした。幼年期、青年期で印象の強い場所に関連して3つぐらいテーマを見つけると良いでしょう。

(1) ゲッティンゲン、ハーナウ、カッセルなど
 ゲッティンゲンは小さな大学町です。ヤーコブはこの大学の教授でした。ここで学んだ人にはノーベル賞受賞者45人、他にビスマルク、ハイネ、日本の仁科芳雄などがいます。政治に関心のある人、ビスマルク文学が好きな人はハイネ、物理学ならハイゼンベルク記憶にとどめると良いでしょう。ちなみに、ビスマルクはプロイセンの首相を務め、いくつもの国に分かれていたドイツを統一しました。ハイネはドイツの代表的詩人でデュセルドルフで生まれ、ローレライなどの詩があります。

(2) グリム兄弟
  兄のヤコブ・グリムは1765年に生まれ、弟のヴィルヘルム・グリムはその翌年生まれています。ドイツの近代化で昔からの伝説は失われるのを恐れ、言い伝えを集めて編集したのがグリム童話です。桐生操の本当は恐ろしいグリム童話などを読むのもよいでしょう。ドイツ語辞典を16巻に着手し、それは死後完成しました。

(3) ナポレオン戦争
  1806年イエナでプロイセン軍がナポレオン軍に破れドイツの人々は屈辱の日々を送り始めます。この年ゲーテのファウスト第1部が完成し、グリムの童話が集め始められます。ドイツ意識が高まり、グリム兄弟もドイツ精神の真髄として童話の収集を考え、これを守るという意識で努力しました。ドイツ民族主義の強い流れであり、その流れの結果がビスマルクによるドイツの統一となります。

――テーマを選ぶのはなぜですか

海山栄:定年退職後の話題には旅の経験は効果的です。赤頭巾ちゃんが強い印象ならその童話が生まれた背景を①ゲッティンゲン、ハーナウという場所やゲッティンゲン大学の出身者、②グリム兄弟の生い立ちや学者としての業績、③ナポレオン戦争とナショナリズムという3つのテーマを話題として話すと良いでしょう。

――旅の前後に何をしたらよいでしょうか

海山栄:写真などをとると帰国後記憶が強くなります。ノートに3つのテーマ別に自分が話したい事項を書き込み,またそれを眺め後からテレビや本で追加の情報をプラスするなどすればすばらしいです。年をとると同じことを繰り返し、話題がつまらなくなることもなくなります。生き生きと健康長寿になるでしょう。

第2回 定年退職後のたびと人生

――なぜ幼年時代、青春時代に読んだ本、あるいは映画で見た印象の強い場所を旅の目的地に選ぶのですか。 海山:65歳で定年となり85歳まで生きるとします。20年という長い月日です。人生100年時代とも言われていますからもっと長く生きるかもしれません。私が想定しているのは夫と妻がともに元気に夫の定年を迎えた場合です。妻との穏やかな長い年月を楽しく過ごすためには妻の印象深い国などを考慮しなければなりません。

――第2回目は妻の10代、20代まで経験した読書などに関連した思い出深い場所を訪ねることですね。 海山:それが1番よいです。しかし予算なども考えて妻がシューベルトの歌曲が好きとすれば、ゲッティンゲンやカッセルを訪れた後にウィーンにいって帰るのも一つの方法ですね。シューベルトは天才でわずか31歳でなくなりました。彼はシラーなどの詩に曲をつけ、これが歌曲です。文学と音楽を融合させる先駆的役割を果たしました。

――なぜ幼少期や青春時代の印象を大事にするのですか。 海山:記憶には短期記憶と長期記憶があります。脳の中の海馬という部分があり、ここで記憶されます。長期記憶は大脳皮質のある部分に移されて定着します。だから人生の初めの頃の記憶は絶対忘れない記憶です。この貴重な財産を守り、関連した事項を旅やそのほかの手段で補強することは人生を豊かにします。

第1回は定年退職者のための旅行先選定のヒントです。

――今のわれわれの生活はヨーロッパから大きな影響を受けているといわれす。

しかしヨーロッパのどこに行っていいかわかりません。 海山:我々は小学校、中学校、高校、大学と過ごしてきていますが子供のとき読んだ本,青春時代に読んだ本、見た映画やテレヴィ、聞いた音楽があります。それらの中で1番印象に残る本などの舞台となる場所を訪ねるとよいと思います。

――具体例をあげてください。

海山栄先生:例えば子供のときグリム童話を読んだとします。ヘンゼルとグレーテル、赤頭巾、 ちゃん、ブレーメンの音楽隊、裸の王様など。グリム童話は誰が書いてドイツのどこが背景でしょうか。

――また時代背景も知りたいですね。

海山:グリム童話の作者はグリム兄弟でドイツのヘッセン国ハーナウで生まれました。二人は年子で兄のヤーコブは1785年、ヴィルヘルムは翌年の生まれです。ですからハーナウとゲッティンゲン行くことをお勧めします。ハーナウはメルヘン街道の出発地です。終点ブレーメンはグリム童話「ブレーメンの音楽隊」で有名です。この街道は約600キロあります。

――ゲッティンゲンを推薦するのはなぜですか。

海山:グリム兄弟がゲッティンゲン大学の教授をしていた1837年に大学の自治問題で辞職に追いこまれました。またこの大学の出身者のノーベル賞受賞者は45人もいます。医学者コッホ、詩人のハイネ、哲学者のショーペンハウアー、政治家ではビスマルクやシュレーダーなどが同校出身です。オックウフォード、ケンブリッジ、ハーバードと同じくらい良い大学ですが日本ではそれほど知名度がないのでこの大学を知ることはちょっと誇れるでしょう。

――どのようにグリム童話は編集されましたか。

海山栄先生:1800年代の初めごろからグリム兄弟はヘッセン国(首都カッセル)を中心とした故郷近くに伝わる民話や昔話を集め始めました。だんだん古い昔話を覚えている人が少なくなってきました。だから6年かけてつとめて口伝えにしたがって集めたのです。

――その当時、ヘッセン国はフランスの支配下でしたね。

海山:1806年にプロイセン軍がナポレオン軍に破れ、1807年にはヘッセン国はヴェストファーレン国に合併されナポレオンの弟ジェロームが国王となりました。首都はカッセルでそこにグリム一家は移住していました。そして兄のヤーコブはジェローム王直属の文庫の管理の仕事をゆだねられました。初版の第1巻は1812年に出版されましたが「子どもと家庭の童話」と言う題がついていて子供のためのお話と思われますが意外なことにドイツ民族の伝統的な宝を発掘し、考証し、昔話のなかに脈打っているドイツ民族の心をよみがえらせ、元気づけるという使命感を持っていたのです。

 

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