「世界の自然を愛し、世界の街を愛し、世界の人々と交流する」  Global Communication Travel (GCトラベル)

 
 

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旅のつれづれ草(51)
不屈の国、ポーランド
海山 栄


GCトラベルのスタッフの一人がポーランドのクラクフを中心としたスタディ・ツアーに参加したのでその情報を加味して数回、クラクフ周辺について旅のつれづれ草を綴る。
○現代史の不幸から新しい未来に
 ビャスト朝の最後の王カジミエーシュ3世のポーランドは、興隆し、それを基礎にポーランドがリトアニアと連合王国を作った。この年が1386年でヤギェウォ王朝が始まり国の最盛期となる。クラクフが首都であり、 1410年にはグルンヴァルドの戦いでドイツ騎士団を破った。当時のポーランドは、現在のバルト三国、ワルシャワ、クラクフ、ウクライナから黒海にいたる広大な領土を有した。16世紀の後半、王を選挙で選ぶ制度が始まり、17世紀のスウェーデン軍の侵攻による大被害は、全てを押し流すような猛烈さで大洪水と言われた。18世紀に至りロシア、プロイセン、オーストリアによる第1次から第3次の100年以上の分割の不幸な時期を経て1918年に独立する。第2次世界大戦後は、独立国ではあったが、ソ連圏に組み込まれ不本意な時代が続いた。しかし25年前の1989年連帯を率いたワレサにより、社会主義体制は崩壊した。
 分割の時期にもポーランド人は何回も、独立を目指して反乱し、社会主義政権時代も完全独立をめざして暴動を起こした。1989年は、ポーランド人にとって長い長い、隷属からの解放であった。まことに不屈なポーランドである。
 1989年から25年、社会主義から資本主義への移行は難しい。国の仕組みを変えなければならないし、また個々人の行動様式を資本主義に合ったように変えなければならない。しかしチェコ、ハンガリー、東ドイツ、最後にはソ連までも含めて解放を先導した国であるポーランドは、新しい未来に築く意気込みが強い。トヨタやブリジストン、東芝など日本から進出企業もあるし、隣国のドイツの企業も投資が盛んである。しかし観光を大きな産業の一つにするという目標があるであろう。クラクフ周辺は、多くの世界遺産もありその取り組みのために大きな観光資源である。ヴァヴェル城、ヴィエリチカ岩塩採掘場、織物会館や聖マリア教会等の旧市街、アウシュビッツ、カジミエーシュ地区、ポーランド人にとっての軽井沢的保養地、ザコパネなど、カトリック教の巡礼地、カルヴァリア・ゼブジドフスカ木造教会群など訪問したい場所がたくさんある。

2014年7月12日






旅のつれづれ草(50)
フランス語でなくて英語で書く
海山 栄


エドワード・ギボンは、「ローマ帝国衰亡史」を1776年に刊行し始め、この本は多くの人に読まれた。1776年と言うとアダム・スミスの「国富論」が刊行された年であり、またアメリカが独立した年でもある。
○ 「ローマ帝国衰亡史」は五賢帝時代から始まる ギボンの「ローマ帝国衰亡史」が最初五賢帝時代(西暦96~180、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピアス、マルクス・アウレリウス)から始まるので驚いた。なぜならばあの有名なジュリアス・シーザー(カエサル)やローマ初代皇帝アウグストゥスの記述が無いからである。モンタネッリ[ローマの歴史]や塩野七生の「ローマ人の物語」は、シーザーに十分なページを割いている。特に塩野七生は、ルビコン前と後の2巻によってシーザーを描き、ギボンと並び称されるモムゼンの「ローマの生んだ唯一の創造的天才」という意見を引いてシーザーへの執筆動機を述べている。
ギボンが五賢帝時代からこの「ローマ帝国衰亡史」を書いたのは1776年という年に関係しているのであろう。エリザベス2世以来スペイン、オランダに勝ち、フランスとの植民地争奪戦に打ち勝ち、イギリスがヨーロッパでの覇権国にいたる階段を上ってきたのであるがアメリカ合衆国の植民地からの離脱の動きは、英帝国にとって大きな試練であった。しかしこの時はイギリスが、産業革命を行いつつあり、世界の工場に突進していたときである。まさに絶頂に向かって最後の仕上げの時期であった。だからギボンがローマの絶頂期である五賢帝時代から書き始めたのは、イギリス人にローマとイギリスとを対比させ、パックス・ブリタニカの時期を長期化させたいという願望が反映していたのかもしれない。
当時、フランス語が外交用語としては優位にあり、プロイセンのフレデリック大王は、ドイツ語よりフランス語を重んじていた。ロシアのエカテリーナ2世は、フレデリック大王と異なり、ロシア語は重んじたが、フランス語で外交文書は書き、フランス人啓蒙思想家、ヴォルテールやディドロとフランス語で文通していた。またロシアの貴族の家庭では、フランス語が使われていた。だからギボンは最初フランス語で「ローマ帝国衰亡史」を書こうとした。ところが彼の友人D・ヒュームが英語が今後フランス語の力を越えるであろうといい英語で書くことを勧めた。ヒュームは、哲学者であり、また歴史家として「英国史」を書いていた。英語が現在のように普及することになったのは、イギリスが覇権国家となったが、第1次世界大戦、第2次世界大戦の結果、アメリカに覇権が移った。しかし英語は、英国と共にアメリカの言語だったので、英語の時代が続くことになり、現在は、英語全盛の時代となっている。

2014年7月10日





旅のつれづれ草(49)
第1次世界大戦前のイギリスとドイツ、アメリカ
海山 栄


ヨーロッパ人にとって第1次世界大戦の重みは、大きい。この戦いまでは、ヨーロッパが世界の動向を決定していたのであるがこれ以降それが不可能になったのである。日本は、この戦いに参戦はしたが両手でというより片手で参加し、この戦いの間自国が戦場となることも無く、むしろヨーロッパの主要国がこの世界大戦にエネルギーを注いでいる間に輸出を伸ばし好況に沸いていた。大正デモクラシーには、この影響が強い。しかし日本人は、第1次世界大戦に関しては関心が薄い。
 安倍首相は、1月のダボス会議で海外目ディアとの懇談の席で日中の武力衝突の可能性について聞かれ「第1次世界大戦前の英独は多くの経済関係があったのに戦争にいたった。日中もそうならないようにしなければならない。」といったという。
 D.S.ランデスの「西ヨーロッパ工業史」によれば、1870年以降第1次世界大戦まで経済成長は、ドイツが躍進しイギリスは停滞した.イギリスは、19世紀はイギリスの世紀といわれるように産業革命の先駆者として世界の経済成長を引っ張った。しかしイギリスは、対岸の国ドイツが、長い分裂から抜け出し、飛躍すると過度にドイツを警戒した。イギリスに対して競争力を持った製品はドイツ製品だけではなく、アメリカの工作機械等やインドや日本の綿業などがあった。ドイツは、飛躍はしたがサービス部門(流通、運輸、金融、保険)では、イギリスで新しい発達を始めていた。コールタール誘導体の生産では、ドイツは圧倒的であったが、そのタールに関してはイギリスに大量に依存していたのである。
 第1次世界大戦は、ヨーロッパの地位を非常に低め、アメリカがその姿を明確に突出させる働きをした。イギリスの植民地であったアメリカは、1776年の独立以来反英国の姿勢をほぼ一貫して取っていたが1861年の南北戦争までは、英国が米国を圧倒していた。ドイツも躍進したのであるが、ロシアとフランスという強国が隣にいた。しかしアメリカ大陸には、アメリカに匹敵できるライヴァルはいなかった。中西輝政氏は、その著「大英帝国衰亡史」でイギリスは、同じ英語を話す国アメリカに外交的に過度に譲歩し、ドイツには、過度に警戒したことがイギリスの衰退を早めたといっている。

2014年05月20日



旅のつれづれ草(48)
ナチスによるレーベンスボルン(拉致事件)
海 山  栄


ナチスによるユダヤ人の絶滅計画とアウシュビッツなどの強制収容所でのその実行はあまりにも有名であるがそのほかにポーランドなどの子供の誘拐、拉致事件がある。
   レーベンスボルンとは、ドイツ語で「命の泉」という意味である。ヒトラーは、独特な考えを持っていた。すなわち、ユダヤ人は、他の民族を汚染する民族と考えていた。映画「戦場のピアニスト」の原作「ピアニスト」を読むとアーリア人という言葉がしばしば出てくる。アーリア人というのは世界で賞賛されている文化を作り出した民族で、ドイツ人はこの中で最高の一つに位置づけられた。シュピルマンというユダヤ人ピアニストは、ドイツ軍に占領されたワルシャワで家族は皆、どこかの強制収容所に連れて行かれて死にいたるのであるが奇跡的に最後まで生き延びる。ユダヤ人の住んでいるところがユダヤ人街でドイツ人が住んでいるところがアーリア人街である。
ナチスが1933年に政権を握り、チェコなどヨーロッパ各地を支配始めると、ドイツの人口がなかなか増えないことが彼のあせりとなった。そこで作った組織がレーベンスボルンである。高級将校や親衛隊などの優れたドイツ人の血の入った子供を増やそうとした。このような子供や母親は、保護された。しかしこのシステムでは、なかなか人口が増えないので1939年の第2次世界大戦以降、占領した国々からアーリア人らしい容貌を持った子供の誘拐を始めるのである。ルーマニア、かつてのユーゴスラヴィア、白ロシア、ノルウェー、ベルギー、オランダ、デンマーク、フランスなどから青い目で、金髪で見栄えの良い子供たちを拉致してきたのである。特にポーランド人はその数が多く20万人以上といわれる。北朝鮮も日本人や韓国人などを拉致したが、ナチスとは目的が違うと思われる。
アロイズィ・トヴァルデツキの「ぼくはナチスにさらわれた」でこの本の著者は、ポーランドからさらわれ、ドイツの養父母に引き取られる。アロイズィは、ドイツ名アルフレートにそして養父の名前ビンダーベルガーである。

2014年4月15日



第2次世界大戦開始から75年になる今年は、さまざまなことを想起させる。 第1次世界大戦の開始が100年前であり、約5年でこれが終結したが、それから20年で再び大戦が始まった。ヒトラーの政治的野心は、第1次世界大戦の敗戦の翌年1919年ドイツ労働者党に入党して始まる。翌年2月ビアホールでの演説で大衆にアッピールし、演説に自信を深める。ヒトラーの主張によりドイツ労働者党は、ドイツ国家社会主義労働者党(NSDAP)に改名する。  ヒトラーは、オーストリアに生まれで画家になろうとしてヴィーンに行くが、美術学校の受験に失敗する。第1次世界大戦が始まると志願して兵役ににつく。ドイツは、ヴェルサイユ条約に1919年に調印して共和国になるが、ドイツ人はこれになじめなかった。ドイツは、プロイセンを中心として統一され、領土を広げたフリードリッヒ大王とか初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世とかのイメージが強かった。H・マウ等の「ナチス」時代によれば、物心ついて以来、君主制の秩序しか知らなかった国民にとって、帝政の崩壊という社会変化は、歴史的に避けがたいことであることが理解できなかった。だから共和主義者のいない共和国と皮肉られた。ヒトラーの独裁政権を樹立し、東欧に進出し、ユダヤ人を絶滅しようという願望はこのような国民の意識がなければ、起きなかったであろう。
 1922年にマルクが崩壊し、23年には、ドイツが賠償を支払うことができなくなって、フランスとベルギーがドイツの工業の中心地ルールに進駐したことによってインフレは、天文学的数字となりこれが中産階級を苦境となった。そしてヒトラーのナチスは、ミュウン蜂起を起こし、ベルリンに進軍しようとするが失敗する。そして逮捕されるが、24年ドイツマルクは奇跡的に安定に向かい経済も小康状態となる。ヒトラーも獄中で「わが闘争」を書くが、恩赦で出獄する。5月の総選挙では、ナチスは32議席獲得するが、12月には14議席まで転落する。1928年の総選挙では、12議席まで低落する。ここまではヒトラーは、ナチスを率いることはできたが大きな成功を収めることはできなかった。
 1929年にニューヨーク株式市場が暴落して1930年の2月には失業者は250万人を越え、これがナチスには大きな追い風となる。そして翌年31年の総選挙では、一挙に107議席を獲得して第2党となる。1932年7月の総選挙では、230議席を取って第1党となる。1933年、前年再選された大統領ヒンデンブルグは、1月にヒトラーを首相に任命する。セバスチャン・ハフナーの「ヒトラーとは何か」の分析によれば、彼は雄弁以外に組織能力,すなわち能率的な権力機構を作りそれを支配する能力だという。もう一つ1933年には、600万人の失業者がいたが、3年後の1936年には、完全雇用となった。ヒトラーは、経済に暗く、経済政策に素人だったが、「財政の魔術師」といわれたH・シャハトを経済省のトップにすえ腕をふるわせた。軍事力では1933年には、空軍のない無力の軍隊を1936年には、ヨーロッパ最強の空軍と陸軍を持つにいたった。このような大成功であったが1939年にポーランドに侵攻して第2次世界大戦をはじめ、特に1941年にソ連とアメリカとの戦争を始めたことは徹底的失敗であった。特にヒトラーの反ユダヤ主義は、アインシュタインを初めとする多くの一流の科学者を失い、20世紀の最初の1/3分は、ユダヤ人の作家や活躍のため、科学や経済だけではなく、文化の面でもイギリスやフランスをしのぐようになった。それが無に帰し、また強制収容所でのユダヤ人などの大量殺害は大きな汚名となった。

2014年3月30日



今年はナポレオン戦争が終わり、その戦後処理のためのウィーン会議から200周年、第1次世界大戦が始まって100周年である。第1次世界大戦が始まったのは、1914年であるが、この時ポーランドはまだ独立していず、独立を達成したのは、第1次世界大戦が終わった1918年であった。ポーランドは、強国に囲まれ第1次~3次にわたってロシア、ドイツ、オーストリアに分割され第3次分割は1795年であった。 この長期の間、ポーランド人は独立をあきらめず、何回かの独立のための蜂起がおこした。そして1918年に独立するのであるがドイツのナチスは、ソ連と不可侵条約を結び、1939年に第2次世界大戦を始める。ナチスは、西ポメラニアや上シロンスクなどからポーランドに侵入する。ポーランドが独立を保ったのは、わずか21年であった。ナチスは、ユダヤ人の絶滅の計画を持ち、ポーランド国内のトレブリンカやアウシュビッツに強制収容所を作った。ここで何百万人かのユダヤ人犠牲となり、ポーランド人で殺された人もかなりの数になった。ポーランドは戦場となり、ワルシャワは徹底的に破壊された。
  第2次世界大戦が終了したのは、1945年であるが来年でもう70年になる。この年に生まれた人は70歳になる。日本の戦争体験者は、70歳以上の高齢となった。戦後は大国のあいだの戦争は起っていないが、現在もシリア、ウクライナ、イスラエルとパレスチナ問題などがある。日本も中国とは、尖閣列島、韓国とは竹島、北朝鮮とは、拉致の問題などは、戦争とつながりかねない。若い人は、当然として40代、50代の人もこの機会に戦争について考えるのは、平和を維持するために必要であろう。
  ポーランドは、亡国の経験、ナポレオン戦争、第1次、第2次の世界大戦、その後、戦争は起きなかったが、東欧革命の先導者となった。だからポーランドは、戦争と平和の問題を考えるのに非常に適した国である。

2014年3月15日



レオナルド・ダ・ヴィンチは、「モナリザ」、「最後の晩餐」などの絵で有名である。しかし彼はさまざまな能力があった。彼は、植物学、解剖学、物理学、哲学数学などに優れ、そして画家であった。彼は、ルネッサンス期にイタリアの各地にパトロン求めて回りそこで仕事をした。最後は、フランス国王フランソワ1世の庇護の下にロワール渓谷のアンボワーズで過ごし1519年に67歳で亡くなる。モナリザは、フランスのルーブル美術館にあるたくさんの美術品の中でこの絵は、1番の人気だという。
 アダム・スミスは、国富論のなかでピンの製造を例にして、分業による能率の飛躍的な上昇をのべた。ヨーロッパの偉大な文化は専門化によるところが大きい。だから専門化が、ヨーロッパの人々の重視されるようになった。ダ・ヴィンチのイタリア・ルネッサンスの時代は、グーテンベルグの活版印刷術の発明で、書物による情報革命が起こっていた。現在は、コンピュータに基づく情報と通信によるICT〈インフォメーション・コミュニケーション・テクノロジー〉の革命が起こっている。さまざまな分野の科学が発達することによって小さな専門分野にのみ精通する弊害が指摘されるようになった。森の中の1本1本の木には、詳しいが森全体がよく見えないという弊害である。だから専門分野を2つ以上持つことがICTの時代にのぞましい。特に経営者は、森を見る必要がある。ドラッカーは、経営は教養であるといった。ダ・ヴィンチのいくつもの専門をきわめるようには、なかなかいかないが旅は、教養を与えてくれる。
クラクフにはチャルトルスキー美術館がある。そこには、世界に3枚しかないというダ・ヴィンチの「貂を抱く貴婦人」という絵がある。

2014年02月13日


昔から友達の重要さは、さまざまに言われている。中国で有名なのは,春秋時代、管仲と鮑叔の友情関係を管鮑の交わりとして高く評価されている。現在は、友達は同郷だけでなく他県や外国や外国人にまで及んでいる。男女の場合は国際結婚も多くなっている。ドイツ古典文学で有名なゲーテとシラーの友情関係も特筆される。ゲーテは、1794年にシラーと心を許しあう関係で結ばれた後、文筆活動が活発になったという。
 良い友達が得られれば刺激を受け、仕事や研究が進むばかりでなく、自分を理解してくれる、自分を認めてくれる友達が存在すれば気持ちが落ち着く。小沢征爾氏は、世界的なオーケストラの指揮者だが外国人との交流が多く、外国人の友人にいろいろ助けられたり、教えられたりしている。今年1月に日経新聞の「私の履歴書」に連載されているが彼は、ヘルベルト・フォン・カラヤンからこういわれたという。「君はオペラがわからない。オペラとシンフォニーは車の両輪だ」それから小沢氏は、それを心に留め、とくに「小沢征爾音楽塾」では、若いうちからオペラを教えているという。外国人と日本人は、文化や発想が違う。カラヤンからの言葉は、外国人の友人あるいは恩師がいると、生き方や考え方に良い影響がある。しかし言葉の問題などがあるので外国人との交流への強い心がけが必要である。

2014年01月26日


1814年にナポレオン戦争が終わり、ウイーンでその戦後処理が行われる会議が開かれた。ハプスブルグ帝国のメッテルニヒが中心となり協議を行ったが各国の利害の対立があり結論には、いたらなかった。しかしナポレオンが再起したという情報が流れると各国の代表者は、あわてて結論を急いだ。これがウイーン体制と呼ばれる状況であった。それから1914年第2次世界大戦にいたるまでヨーロッパには大きな戦争はなく、産業革命を最初に実行した英国が世界の覇権を握って比較的平和の時期が続いた。これがパックス・ブリタニカといわれる。  1914年に始まった第1次世界大戦は、1918年に終わりアメリカは1917年に参戦するが この戦いの間に債務国から債権国に変わった。経済的には世界一の大国になったがウイルソン大統領の提唱で生まれた国際連盟に参加せず、英国が果たした役割を演じるまでには至らなかった。アメリカによる平和は、すなわちパックス・アメリカーナは、第2次世界大戦が終わってからであろう。ヨーロッパがこの戦争で疲弊したのに対し、ドルはイギリスのポンドに代わり,世界の基軸通貨になり国際連合でも中心的存在になった。パックス・ アメリカーナは二つの大戦のような先進国同士の戦争はなくなったが朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、アラブ諸国とイスラエルの戦争、アフリカ諸国間の内戦等沢山の戦争がおこっている。

2014年01月22日


王妃の離婚とか小説「フランス革命」などという著作のある作家の佐藤賢一氏は、フランス革命と比較して日本の革命である明治維新は、1/2革命といっている。すなわち、日本人が行う改革は、フランス人が行う改革の1/2であるという。たとえば、明治維新は、旧政権である徳川幕府の最後の征夷大将軍、徳川慶喜は、76年の生涯をまっとうしている。一方フランス革命は、ルイ16世とマリー・アントワネットは、ギロチンにかけられている。日本人は、革命を徹底せず、責任をハッキリさせないなどといわれる。しかしそのため、2013年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」で描かれた会津藩など、多少の人命が失われたが、大きなマイナスは受けなかった。
フランス革命は、ルネ・セディヨの「フランス革命の代償」によれば、革命が始まった1789年からナポレオン戦争が終わった1815年まで約200万人の人命が失われたという。当時の人口2700万人にとって大きな損失で、第1次世界大戦と第2次世界大戦をあわせた死者よりも多かったという。近代化学の父といわれるラヴォアジェは、ギロチンに消え、化学者ニコラ・ルブランは、人造ソーダを発明したのであるが、財産を没収され自殺に追い込まれた。「共和国は学者を必要としない」と言われたようにフランス革命の徹底さは、科学者などの人命の損失と産業の遅れをフランスにもたらしたという。イギリスに比べ経済や政治の主導権でフランスは、弱くなったのである。

2013年12月25日



2013年9月7日〈現地時間〉にブエノスアイレスで2020年のオリンピックがどの都市で行われるかが決定された。 東京、イスタンブール、マドリードの3都市の中で東京が選ばれたが、さまざまな事前の広報活動や働きかけの他にプレゼンテーションが決め手の一つといわれている。投票権を持つIOCの委員の中には、フランス語圏の人が多く含まれている。そこで高円宮妃や滝川クリステルさんなどは、フランス語で東京をアッピールしたが、これは安部首相、猪瀬東京都知事、選手の太田雄貴氏、佐藤真海さんなどと共に大きな効果があったといわれる。
 日本人は、プレゼンテーションが下手である。それは、自分を出さないという傾向が日本の文化にあるのが大きく影響しているだろう。今回は、イギリス人にプレゼンテーションの指導を受けたといわれる。これは、世界で活躍していくために、日本文化以外の人々の心を掴む訓練の一つの例であろう。内容をよくするとともに、内容の良さも十分に訴えることは、単にこの東京オリンピックだけではなく、ビジネスで商品やサービスをアッピールする、研究成果を示すためにも必要である。外国に行く、外国人の友達を持つのは、広い意味で国際舞台で気後れせずにプレゼンテーションをする力につながるだろう。

2013年9月25日

「怪談」などで有名な作家小泉八雲はギリシャのレフカダ島でアイルランド人のチャールズ・ブッシュ・ハーンを父とし、ギリシャ人のローザ・カシマチを母として1850年に生まれた。ラフカディオという名前は、この島に由来する。工藤美代子氏の「聖霊の島」や「神々の国」によればその後、父の故郷のアイルランドに行く。4才の時に母は、ギリシャに帰ったので永遠の別れとなった。彼は、母が去ってからは、叔母に育てられたが軍人の父は、再婚してインドに行ったので7才の時に別れた。フランスで中学時代を過ごし、叔母が破産したために、イギリスのロンドンで一時過ごした。その後リバプールからアメリカに向かう。アメリカでもシンシナティ、ニューオリンズ、ニューヨークと移動し、さらにカリブ海のマルチニークで過ごす。そしてニューヨークに戻り、カナダのモントリオールに行き、大陸横断鉄道でバンクーバーに着き、横浜港に向かう。このようにラフカディオ・ハーン・小泉八雲は、両親の愛情を受けることが少なく、両親や養育者の事情によって、ギリシャ、アイルランド、フランス、ロンドンと様々な所に居を移す。アメリカ以降は自分の意志で、移動するが彼の作品にそれが反映されている。横浜に着いたのが1890年であった。横浜で教師を少しの期間した後に松江に行く。当時の明治の日本では急速に近代化を推し進めるために外国人教師が必要だった。優れた人材が必ずしも極東の日本には来なかった。松江では英語教師としての前任者の評判が悪く、ラフカディオ・ハーンは、その後任となるが松江では生徒から慕われた。日本人を野蛮人として軽蔑せず、八百万の神の国といった。松江市から遠くないところに出雲大社があり、ハーンは、松江に着いて半月足らずでここを訪れている。そして士族の娘、小泉セツと結婚する。1891熊本の第5高校に赴任するが、熊本は好きになれず、1894年に神戸のクロニクル社に移る。このころ文学作品をアメリカで出版しかなりの収入が得られるようになる。1996年(明治29年)日本に帰化し、妻の小泉の名字と出雲にちなんで八雲をとり、ラフカディオ・ハーンは小泉八雲となった。人類はアフリカから世界各地に広がったと言うが小泉八雲も放浪の癖がありさまざまな土地に暮らすが妻セツの愛情、子供の誕生などで日本に定住することになる。この年英文学、語学の講師として東京帝国大学に招聘される。当時の学長戸山正一がアメリカの雑誌に発表された英文の文章を読んで感銘をうけ彼を招くことに熱意もち、これが実現したという。彼は学生に高い評価を受け、その後任にはロンドンから帰国した夏目漱石がなった。八雲は旅の経験を文学に活かし、日本を世界に紹介した。

2013年6月03日

今年はリヒャルト・ワーグナー生誕200周年である。ジュゼッペ・ヴェルディも同年に生まれている。二人のオペラの巨匠がドイツとイタリアで生まれた。この年の3年前1910年にはフレデリック・ショパンとロベルト・シューマンが2年前の1911年にはリストが生まれている。1770年頃からイギリスで始まった産業革命は、1830年には、マンチェスター~リヴァプール間の鉄道の開通となり人の行き来が活発になっていった。そして1851年ロンドンで万国博覧会が開かれた。七つの海を支配して、五つの大陸に広大な植民地を持つに至るイギリスに対して、19世紀はイギリスの世紀といわれるようになる。植民地争奪戦とナポレオン戦争でイギリス敗れたとはいえ、フランスもヨーロッパ大陸では力があり、ドイツはプロイセンが中心となり念願の統一が進みつつあった。現在、大河ドラマ「八重の桜」がNHKで放送されているが、この時代の日本がヨーロッパ列強の植民地になるのを恐れ苦悩する姿が描かれている。年表を調べてみると、19世紀に生まれた音楽の巨匠は、上記の他にメンデルスゾーン、ヨハン・シュトラウス、ボロディン、ブラームス、スメタナ、サンサーンス、チャイコフスキー、ドヴォルザーク等が生まれ、活躍した。この中にイギリス人の名前は見当たらない。イギリスは、経済や政治の面でヨーロッパの中心であったが文化を含めて言えば、ドイツやフランス、ロシアやその他のヨーロッパの国々と一体となってヨーロッパの世紀を形作ったのではないかと考えられる。

2012年3月29日

今年2012年、4年に1度の夏季オリンピックが、ロンドンで7月27日から開催された。204の国と地域から1万人を越える参加者があった。体操の内村航平、女子サッカーのなでしこジャパンの宮間あやや澤穂希、レスリングの吉田沙保里、などの日本人選手の活躍で大きな注目を集めた。 近代オリンピックは、フランスのクーベルタン男爵の提唱で始まった。第1回は1896年アテネであった。古代オリンピックは、ギリシャで紀元前776年に始まった。オリンピックの開催期間中は、戦争状態にあっても戦いを一時中止したといわれる。従って平和のために有効であったといわれる。教育者であったクーベルタン男爵は、これに感銘を受けて近代オリンピックを提唱した。
オリンピックは紀元前776年に始まり、393年に廃止された。ローマ皇帝テオドシウス帝の時代である。テオドシウス帝は、キリスト教をローマ帝国の国教にした。一神教であるキリスト教が国教になるとオリンピックは、多神教の主神ゼウスを祀る行事であるので廃止された。 塩野七生氏は、ローマ人の物語のキリスト教の勝利の巻で「戦争中の国や敗北した国の選手を排斥する近代オリンピックを、古代オリンピックの継承者とは認めていない」という。この意見で思い起こすことは、日本は第2次世界大戦に敗れたため、1948年のロンドンオリンピックには参加できなかった。数々の世界新記録を生みだした古橋廣之進選手は、1952年のフィンランドの)の絶頂期を過ぎていたため金メダルはもちろんその他のメダルにも届かなかった。
また1980年のモスクワオリンピックは、前年のソ連のアフガニスタン侵攻のため、アメリカ、西ドイツ、日本などが不参加であった。 古代オリンピックはギリシャで始まったのであるがその時はポリス(都市国家)の代表であった。村川堅太郎の「オリンピア」によるとギリシャ民族の間だけであったがアレクサンダー大王以降のヘレニズムの時代にはエジプトやマケドニアからも参加している。古代ギリシャと古代ローマの競技に対する態度は異なっていたという。ギリシャ人は、参加することに価値観があったが、ローマ人は剣奴の真剣勝負を見物するという娯楽としての要素が広がった。オリンピックもこれと同様に競技を眺めると言う立場であった。ローマの初代皇帝アウグストウスはギリシャ系の競技を眺めるのが好きであったと伝えられる。彼は、ギリシャ人を上手に治めるには、彼らの伝統的文化の象徴であるオリンピックを盛り上げるのがよいと考えたようだ。 なでしこジャパンの活躍を見て小中学生の女の子がサッカーを志すように、参加するというギリシャ的要素も付加されるとおもわれる。正ギリシャ・オリンピックでは、女子の参加はできなかったけれども。
――GCトラベルからのコメント・アテネのお勧め観光―― アクロポリス遺跡(パルテノン神殿、アクロポリス博物館、ゼウスの神殿 など) 国立歴史博物館、アドリアヌスの図書館など

2012 年11月15日

2012年度のノーベル賞は、何かと話題が多い。日本人として19人目の受賞者に山中伸弥京都大学教授が決まった。文学賞には中国の莫言氏。そして平和賞はEUである。UEA〈世界エスペラント協会〉も言語における平和を願って活動しているのでこれに立候補したことがある。
○ EUのノーベル平和賞
平和賞は個人が多いが赤十字越国際委員会、国連平和維持軍、国境なき医師団などの団体も受賞している。ダイナマイトを発明したノーベルは、この発明によって非常に多額の利益を得た。ダイナマイトが戦争に使われ、多くの死傷者が出るのを悲しんで平和賞が創設された。当初の5部門のうち平和賞はスウェーデンではなく、ノルウェーで授与が行われる。それは、スウェーデンとノルウェーの平和を願ってのことである。
今回のEUの受賞に関して疑問視する人もかなりいる。しかし例えば、フランスとドイツの過去約150年の関係や英仏植民地やアメリカ独立をめぐる対立を見れば、EUの意義はあると思われる。そのほか英独も第1次と第2次世界大戦を戦った。しかし独仏は陸続きの隣国で何度も戦争が行われてきた。だから現在のEUの主要国である独仏の過去を振り返ってみる。
○ ナポレオンがドイツに勝ち、次にドイツが勝ち、その後二つの世界大戦
ケルンやデユッセルドルフを含むライン地方は、1795年から1801年までフランス革命軍によって占領された。ナポレオンが皇帝になって1806年にプロイセン軍を破り、この後1813年まで占領された。
ドイツは長い間、領邦国家に分かれ、統一されなかったがプロイセンがビスマルク宰相のもとにオーストリアとの戦いで勝利し、ライン地方に領土を広げた。ドイツはフランスに脅威となり、対立する。1871年プロイセンとフランスの戦争が起こり、十分準備したプロイセンの勝利となり、パリは占領され、またアルザス・ロレーヌ地方がドイツに併合された。ドイツ帝国が成立するがフランス人の反独感情は非常に強くなった。
1871年にプロイセン主導でドイツは統一されたが、この頃からドイツはドイツ独自の染料産業などの発達を引き起こす。第1次世界大戦では、その規模は、ヨーロッパから世界に広がり、戦争の惨禍は非常に大きくなった。結局、ドイツは敗者となる。この結果、ベルサイユ条約が結ばれるが、フランスの強い主張で、ドイツに過酷な賠償の支払いが決定する。ドイツ国民の不満をヒトラーはベルサイユ条約の破棄という主張によって政権を握る。第2次世界大戦が起こり、アウシュビッツの悲劇がもたらされるが、複雑な要因が関係するが独仏の国民の恨みや不満、世界恐慌などがこの戦争の原因となったであろう。ヨーロッパ合衆国のの実現の夢は、EECからEC,をへてEUに進み、ユーロという共通通貨まで導入された。しかしギリシャから始まったEUの経済危機は、うっかりするとEUが崩壊するかもしれない。ここでEUにノーベル賞を贈り、勇気付けることは、世界の平和に寄与すると思われる。

2012年10月

 旅は日常生活からの脱出であるとともに、日本と外国と比較する面白さもある。言葉も変わり、習慣も変わる。ヨーロッパの植物と日本の植物を比較してみるとポーランドのアウシュビッツの近くの都市・クラクフでは、街の中心地の広場の入口の近くに公園がある。5月には日本と同様にタンポポがきれいに咲いていた。またスウェーデンの第2の都市ヨーテボリには、夏にオオバコが生えていた。ポーランドや北欧は気候が北海道に似ている。白樺は、ポーランドにはよくある木であるし、北海道には多いが日本に帰ってからの発見として東京にも意外とあるのに驚いた。春のワルシャワは4月から5月にかけて急速に緑に覆われるがパリと同様マロニエが咲く。マロニエは日本語では「栃の木」で赤羽や六本木など街路樹として「紅花栃の木」がきれいな赤い花を咲かせる。ワルシャワでは高い木が多く、日本に多い赤い花の「紅花栃の木」はなく、白い花だけだった。菩提樹は街路樹や公園にワルシャワでは見られる。菩提樹の下でお釈迦様が悟りを開いたというし、シューベルトの歌曲集「冬の旅」のなかの菩提樹われわれに良く知られており、よいイメージである。ポーランド語ではlipaというが菩提樹の他には、「ペテン師」とか「がらくた」とかあまりいい意味ではない。同じ植物や花でもこのように国によりイメージの違いがある。
竹はわれわれにとって身近であるが、ヨーロッパではほとんど見かけない。ヨーロッパに長く滞在して日本に帰って竹林をみると「ああ、日本だ!!」と思う。

2012年06月08日

 今年、2012年は、オリンピックの年であり、イギリスの首都ロンドンで開催される。16世紀にはエリザベス1世が統治してイギリスは、1588年スペインの無敵艦隊を破り、後進国から脱して、繁栄へと向かう。そして17世紀、イギリスは人口も増え、次第に近代化へと向かう。1645年オリバー・クロムェルは、議会軍を率いて、国王軍を破り、1649年に国王チャールズ1世を処刑してピューリタン革命を行う。独裁者となるが死後、1660年に、チャールズ2世が王位につきに王政復古が実現する。
ロンドンは1665年にはペストが流行して大勢の人が死ぬ。翌年1666年にロンドンは大火に見舞われる。見市雅俊、「ロンドンー炎が生んだ世界都市」によればペストはこの大火の後は2度とは流行しなかったという。この時までは、木造建築が多かったがほとんどが煉瓦建の建物となり、道も広くなった。以前、道は、曲がりくねっていたが真っすぐになった。建築規制は、煉瓦又は石づくりが義務づけられ,壁の厚さ、天井の高さも規定され、違反者に対しては厳しい処罰が行われた。焼け残った木造建築以外は煉瓦づくりの町並となり、家事の頻度は著しく減った。大火をを予防するための措置は、清潔な都市も生んだのである。火事は、地震や津波と違い自然災害ではないがロンドンはこの再建設により、世界の中心となるパックス・ブリタニカのための準備が整ったのである。日本の東北大震災も再生のための、さらなる繁栄のための契機となるとことが望まれる。

2012年04月02日



 シェイクスピアを題材とした「夏の夜の夢」などでの曲で知られているのは、フェリックス・メンデルスゾーンである。彼は銀行家のアブラハムを父とする豊かな家に生まれた。その祖父モーゼス・メンデルスゾーンは、ドイツの哲学者である。啓蒙君主であったプロイセン王国のフレデリック大王はヴォルテールなどを招いた、フランス語を話すフランス崇拝の王であった。当時、大王の治下のベルリンに1743年にモーゼス・メンデルスゾーンはデッサウのゲットーから出てきた。ユダヤ人は差別され、ゲットーという隔離したところに住んでいた。モーゼスもそうであったが、ここに住むユダヤ人の子供はドイツに住んでいたのにドイツ語を知らず、知っていたのは、ユダヤ教の聖書の中のいくつかのヘブライ語の文章と単語だけだった。そこで話されていた言葉はイディッシュ語だった。
「メンデルスゾーン家の人々」のハーバート・クッファーバーグによるとゲットーにいたときモーゼスは、へブライ語をマスターし、ベルリンに来てからは、ユダヤ人街で暮らし、ある商人の屋根裏部屋に住み、まずドイツ語の幅広い知識を身につけた。ドイツ語でプロテスタント史を読むまでになり、ラテン語、フランス語も習得した。文学、哲学、科学、論理学、ユークリッド幾何学なども主として独学で、あるいは友人から学んだ。商人であるベルンハルトの4人の子供の家庭教師を勤め、簿記をマスターして糧を得た。彼の話すドイツ語は流暢で上品であった。彼の博識はユダヤ人の間で評判となったが、けしておごらず謙虚であった。またユダヤ人以外からも彼の人柄は好かれ、ゴットホルト・エフライム・レッシングとは、固い友情でむすばれ、彼の「賢者ナータン」という作品はモーゼスをモデルとしている。
モーゼスは長い思索の結果、ギリシャのプラトンの思想を「ファイドン、または霊魂の不滅」という著書で発表した。これはプラトンの考えを18世紀のドイツにドイツ語で紹介したものであり、評判となった。またヘブライ語からドイツ語に聖書を翻訳した。その結果、ユダヤ人の間でユダヤ人が最も尊重する「モーセ5書」が広く読まれるようになり、啓蒙運動が起きた。メンデルスゾーンの後継者はヘブライ語のハスカラーと呼ばれる啓蒙運動をポーランドやロシアにも広げた。モーゼスの影響は非常に大きく、これ以降、ヨーロッパに、とくにユダヤ人が多く住んでいた中・東欧に大きな影響を与えた。これ以後、世界を変えたユダヤ人が輩出するのもけして偶然ではないであろう。

2012年01月27日



 日本資本主義を創造した人といわれるのが渋沢栄一である。豪農の家に生まれたが、幕末という時代はかれを奮い立たせ、攘夷の志士を目指したが、挫折し縁あって後に徳川将軍となる一橋慶喜(よしのぶ)の家臣となった。その一橋慶喜は、第16代将軍となる。しばらくして将軍の弟、昭武公(あきたけ)が1867年のフランスでの万国博覧会に、フランスからの招待を受けて将軍の代理として出席するとともにそのあと5年くらい留学することとなる。渋沢栄一は、そのときの家庭教師兼事務長のような役割を命じられた。 1867年2月〈慶応3年〉に1500トンの蒸気船で出発する。明治維新の1年前であった。上海、香港などを経てスエズ運河を通り、マルセイユに到着する。マルセイユからは鉄道で4月11日、横浜から56日目にパリに着く。皇帝はナポレオン3世であり、謁見し、フランス政府から歓待をうける。ナポレオン3世はパリ改造をなし、産業革命が非常に進展した。万国博覧会の会場で各国の出品した 品々を観察し、アメリカの耕作機械、紡織機械、リヨンの絹布織物に感嘆する。スイス、オランダ、ベルギー、イギリスなどを訪問してフランスにもどる。 泉三郎の「青年・渋沢栄一の欧州体験」によれば、昭武公は15歳で借り入れた3階建てのペルゴレーズ館で留学生活が始まる。毎朝7時から乗馬、9時に帰館、朝食の後、雇われたフランス語教師が10時半にきて、午後3時まで文法や作文を行った。そのほか、射撃、画学、礼学などそれぞれ教師がつくカリキュラムであった。 アダム・スミスは、バックルー公につき添いフランスに滞在して、経済表で有名なケネー、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールなどに会った。それが「国富論」の著作に非常に良い影響があるという。他方、渋沢栄一はアダム・スミスが会ったほど有名の人に会ったわけではない。しかしこの昭武公のお供で近代国家のための商工業の仕組み、実業家の役割の重要性を知った。将軍からの依頼でフランスの教育係は陸軍大佐ビレットであった。銀行家フリュリ・エラールとは親しくして社債、国債のしくみや金融の役割を知るのに役立った。これらの人々との接触を通じて、役人や軍人と銀行家は対等であることを知った。スエズ運河のような国を越えて役立つ事業が合本主義による株式会社であり、民間の小規模な資金が大勢の人から集まれば巨額となり大きな事業を行うことが出来る。翌年幕府が倒れ日本に帰るが、第一銀行という銀行を日本で最初に設立し、また王子製紙、JRの前身の日本鉄道など500にも上る株式会社の設立にかかわっている。

2012年01月16日



 ヨーロッパで見て驚くものの一つには、にゴシック建築がある。パリのノートルダム大聖堂、ウィーンのシュテファン大聖堂、ケルン大聖堂、プラハ城のなかにある聖ヴィート大聖堂などは高くそびえる威容を誇っている。これらの都市を訪れればこれらの尖塔を眺めながらキリスト教徒の神への強い願いを感じないわけにはいかない。
ゴシック建築は、北フランスからはじまったという。酒井健氏の「ゴシックとは何か」によれば11世紀の中ごろを過ぎるころから大開墾時代が始まり、約250年間続いた。この開墾でフランスの森林は全体の土地の6割から2割となった。森林には数十メートルもある高い木が茂っていたがこれらを切り倒して畑にした。このような開墾の熱が広がったのは、農業の技術の進歩、すなわち三圃農法が広がったためである。今までの方法だと収穫量は播種量の多くて2倍程度だったが、これが3倍から4倍になった。最初はシトー会とかクリュニー会といった修道院が信者から土地の寄進を受け、その土地から三圃農法が普及した。修道士の指導的役割により、土地を深く掘ることが出来る有輪犂、馬の蹄鉄、などの優れた技術が取り入れられ、この農法との組み合わせた結果、収穫量があがった。修道院の所領から王や封建領主の土地へと広がった。この結果、耕地面積が増え、人口が非常に増え都市は大きくなった。農民の生活も春播き麦である、大麦やカラス麦によって、黒パンを常食に出来るようになった。フランスの人口は1328年には、約3倍の2000万人に増加した。
都市に流入した人口のほとんどが農民であった。そしてこれら農民はほとんどがキリスト教徒ではなかった。深い森、狼などの住む自然の恐ろしさを秘めた森、ブナやカシワなどの巨木が荒々しく茂る森はまた他面、魅力的でもあった。パリの近郊、イル・ド・フランスにはセーヌ河、オワーズ河が流れている。森の緑と河のコントラストをなす景観、これらの河が引き起こす洪水、農民の宗教観は自然の恵みと脅威に直面して、これらに霊的なものや神的なものを感じたであろう。 ゴシックの大聖堂はこのような多神教的な感情を持った農民出身の新しい都市住民に巨木の生い茂る森林を感じさせた。左右に並ぶ石柱はあたかもブナやカシワのようであった。大聖堂の中は暗く、ステンドグラスを通しての光は神秘的で森の中の光のようである。このようにしてカトリック教は、異教的要素を取り込んでキリスト教を普及させたのである。

2011年12月20日



 もしもルーズベルト大統領が採用した経済政策の考案者のケインズ、ノーベル経済学賞を受賞したサミュエルソンなどが、日本語を話せて子供の家庭教師として2年間外国旅行に一緒に行ってくれたらどうであろうか。 まことに豪華な家庭教師つき旅行ではないか。現在では、これは考えられないことであるが18世紀イギリスではこれと同様なことがあったのである。 イギリスで17世紀以来、貴族は文化的先進国であるフランスやイタリアに子弟を送ることが国際的に通用する人材となるためには不可欠であると考えられていた。とくに1721年にウォルポールが事実上の首相となりこれが1742年まで21年間続いた。議院内閣制はこのときから始まったという。そのため政治が安定した。 また農業においてもノーフォーク農法という技術革新が起こった。これは穀物の連作は、地力が消耗する。それを防ぐためにかぶ(野菜)やクローヴァーを間に入れる方法である。このような背景で7年戦争が終了した1763年ごろには地代が急騰し、イギリスの貴族階級は豊かになった。そこでその子弟をフランスとイタリアに送る貴族が増えたのである。 フランスは、ルイ14世とルイ15世の時代を通じて礼儀作法や社交生活が洗練されていった。フランス語はヨーロッパの外交語に18世紀になったのもここで美術、文学や工芸などが絢爛と花開いたからである。このフランス文化に触れ、またイタリアでは、ローマの遺跡やルネッサンスの芸術を体験し、貴族たちとの交流することが狙いであった。本城靖久の「グランドツアー」によれば一流中の一流という人物である、哲学者、ジョン・ロック、「リヴァイアサン」のトーマス・ホッブズ、アダム・スミスなどの学者や大学教授が家庭教師として貴族の子弟につき添ったという。 アダム・スミスは1764年1月から3年近くバックルー公爵家の若殿とヨーロッパに行った。このときの報酬は、年300ポンドでしかも、帰国後300ポンドの終身年金が保証されていた。300ポンドというのはスミスが教授として勤めていたグラスゴー大学の給料の2倍であった。この報酬とともに、アダム・スミスは「国富論」の著作に寄与する有名人に多数会っている。例えば、ジュネーヴ近くのフェルネーにヴォルテールを訪ね何回も会ってている。パリでは経済学者で後に財務総監になったチェルゴー、ルイ15世の侍医に任命されていたケネーとその弟子たちに、そのためヴェルサイユ宮殿に何度も訪れている。

2011年12月5日





 キリスト教徒にとって聖書は、旧約聖書と新約聖書の二つから成立している。旧約聖書はユダヤ人の歴史であり、ユダヤ人にとっての聖書は、旧約聖書だけである。それではなぜキリスト教徒には、旧約聖書も聖書なのであろうか。
イエスは、キリスト教の始祖であるが。しかし、イエスはユダヤ教の教えである律法は、ヘブライ語ではトーラーであるが、これを否定したことはない。イエスはユダヤ教の儀式を尊重していた。彼の12人の弟子は、全員ユダヤ人であった。ユダヤ教には,サドカイ派とかパリサイ派とがあったがイエスのグループもユダヤ教の一つの派のように見られていたのである。したがって当初キリスト教は、ユダヤ教と未分化であった。ただイエスの教えはユダヤ人だけでなく、より広い層の人々に訴える内容があったのである。彼の教えは、弟子たちによって福音書としてまとめられている。遠藤周作は、「キリストの誕生」のなかでイエスは十字架上で、イエスを見捨てた弟子たちに恨みがましいことは言わず、神を信頼し、「父よ、彼らを許したまえ、彼らそのなすことを知られざればなり」と必死で愛の言葉を述べたと考えている。これが弟子たちに感動を与え、原始キリスト教団を結成させその後のキリスト教の発展の基礎になったのであろう。とくに聖パウロが最初はキリスト教を迫害したが,回心して伝道の旅に出る。非ユダヤ人に対する布教活動が顕著であり、当初のキリスト教からのさまざまな民族に適するようなより普遍性を持った考えで布教した。そのためにギリシャ哲学を当初のユダヤ的な教義と調和させようと試みた。このような努力の集積により、キリスト教がユダヤ教から分離独立していく。

2011年11月28日




 アメリカ合衆国は建国以来、負けることがなかったが、ベトナム戦争はどうみても負けたといえるだろう。 B・W・タックマンの「愚行の世界史」によれば、ベトナム戦争の発端は、ルーズベルト大統領が、第2次世界大戦の最後の数ヶ月にインドシナにおけるフランスの植民地支配の復活を許さず、決して援助もしないという以前の決意をひるがえしたことにあるという。大統領はコーデル・ハル国務長官にフランスに返すべきではない。なぜならば「フランスはベトナムを100年間支配してきて、国民の暮らし向きは悪くなってきている。彼らは今の状態より良くなる資格がある。」と語ったという。 それではなぜ最後に意見を変えたのであろうか。それはソ連の東欧支配の兆候である。ドイツ が敗北し、シャルル・ドゴール将軍が現れ、フランスの復帰権に固執したことである。いろいろな案がでたがルーズベルトは、独立にこだわったが確定できず1945年4月に亡くなった。スタティニアス国務長官は、彼の死後すぐアメリカはインドシナにおけるフランスの主権に疑義をはさむものではないとつげる。 1946年にはソ連はポーランド、東ドイツ 、ハンガリー、ブルガリアに支配をひろげた。フランスの軍隊は、アメリカの輸送船でベトナムに送られる。当時、アメリカ海外情報局アーサー・ヘイルの報告書では、フランスはベトナム人の自治と改革をアメリカが満足できるような形で実現はできないとしていた。 フランス人に対するアメリカ人の心情がベトナム人などのアジア人の民族独立を助けると、ウィルソン大統領の理念よりもフランス人の再植民地化を是認することに影響しているのであろう。アメリカはイギリスから独立したのであるが、イギリスの文化を引き継いでいる。1066年にノルマンディー公がイングランドを征服したために政治、法律、軍事、宗教、芸術、料理などのフランス語が約1万語、英語の中に入ったという。例えば牛肉はbeefだが牛はoxまたはcowである。豚肉はporkだが、豚はpig というように。文化的先進国であったのでフランス語は高級な感じがあり、それはアメリカ人に影響しているのであろう。また独立戦争の時にはフランスはアメリカを助けた。
結局、フランスは誇り高いベトナム人を再植民地化することに成功せず、1954年にディエンビエンフーで大敗北し撤退することになる。そのあとにアメリカが介入することになるがベトナムが共産化すれば、ドミノ倒しにその他のアジア諸国が共産化するという脅迫観念からの行動だった。1961年からJ・F・ケネディーが大統領となりベトナム戦争にさらに深く入り込むことになる。結局、アメリカはこの戦争で多額の費用を費やし、威信を喪失し、多くの人命を失い、得ることのない戦争の終結となる。

2011年11月18日



  国際連合の本部はニューヨークにあるが世界各地に事務局があり、中心的なものはジュネーブ、ウィーン、ナイロビにある。国連でつかわれている言葉は三層構造になっている。即ち、作業語と公用語とその他の言語である。作業語というのは実際に国連の仕事を行っていく上で使われる言葉である。それは1945年4月サンフランシスコでドイツ、日本に宣戦している国が集まり国際連合設立のための会議を開いた。そのとき、アメリカの代表団は時間を節約するために会議での言語は英語とし、そのあとでフランス語に訳すことを提案した。フランスの代表団は、フランス語と英語を平等に取り扱うべきだと主張した。中国の代表団が初めて作業語という言葉を使い、作業語は英語にすべきだろうと表明した。さまざまな議論ののちに、作業語は英語とフランス語、公用語は英語、フランス語のほかに中国語、ロシア語、スペイン語と決定された。1973年にアラビア語が公用語に追加された。2010年の国連の分担金はアメリカ合衆国22%、日本12.5%、ドイツ8.0%、イギリス6.6%、フランス6.1%であるが日本語とドイツ語は公用語ではなく、その他の言語である。

2011年11月11日



  1980年代の日本経済は非常に輝いていた。このときに、日本人は欧米のある一部の人々からイレブン(イレブン・11)と呼ばれた。なぜならば日本人は、ユダヤ人〈ユダヤ人は英語でジュー・Jew ・十と発音される〉よりもビジネスで上と見られたからである。
白人、黒人、黄色人というように見てその特徴がわかるが、遺伝的にいえば99%は、ホモ・サピエンスは共通である。だから生まれつき人種間で知能などに差があるとは考えられない。しかしユダヤ人中からは優れた人々が多数現れた。それはユダヤ人の置かれた環境に求められるであろう。古代イスラエル王国は紀元前930年頃北と南に分裂し、北はアッシリアに、南のユダ王国は、新バビロニアによって紀元前586年滅ぼされ、それ以降さまざまな土地で暮らすことになった。ユダヤ人はヤハヴェというという神を信仰して結ばれた民族である。神から選ばれた民として誇り高く、またそのユダヤ教独特の教えを守ったことによってユダヤ人としてのアイデンティティーを長い年月の間保持できた。しかしローマ、スペインなどやロシア、ドイツなどから差別され迫害をうけた。ヒトラーのアウシュビッツなどにおけるホロコースト(大量殺戮)は最も痛ましい事件である。しかしこの迫害から身を守るために学問、芸術に励んだ人が多かった。アインシュタイン、フロイド、マルクスなど、ノイマン型コンピュータの設計思想を作ったJ・ノイマンや作曲家のメンデルスゾーン、ハイネや、ダニエル・ベル、経営学のドラッカーなどがそうである。
阪神淡路大震災、新潟などの地震、今年2011年の東北大震災の地震、津波、原発事故では、依然として苦しんでいる人が多い。その後も台風や土砂災害で家を流されたり、破壊されたりした。日本は、古来豊かな自然の恵みを受けるとともに次々と災害に襲われている。日本人はいつ地震、台風や洪水などに襲われるかもしれないため緊張する。そのためかペリー・提督に開国を迫られて、欧米のシステムを採り入れ、短期間に先進国に追いつき、第1次世界大戦後には5大大国の一つといわれた。
第2次大戦では敗れ、経済にエネルギーを集中して、世界第二の経済大国となった。1989年の東欧改革以後では日本は、新しいグローバル化の潮流に適応が遅れ、停滞感は強い。 今年3月11日の大震災では掠奪も起こらず、民間企業の復旧は早かったといわれるが停滞を打ち破れるか。松下政経塾出身の野田総理のもとに、災害で苦しむがそこからしっかりと立ち直るだろうか。 ユダヤ人が迫害で苦しんだが多数の人材が輩出したように日本人も災害からの復興に知恵とエネルギーを集中してその再起を期待したい。

2011年10月31日



  アンデルセンに「空と飛ぶトランク」という童話がある。これを外国語で何人かで読んで感想を述べあった。kさんがなぜここに「トルコ」の神様という事が出てくるのだろうといった。空と飛ぶトランクでどこの外国にもいけるとしたら中国とか、日本とかあるのになぜトルコかという疑問である。そこで私ハンス・クリスチャン・アンデルセンの頭の中を想像してみた。 アンデルセンは、1805年に貧しい靴屋の息子として生まれオペラ歌手になろうとコペンハーゲンに行く。これには挫折したが、篤志家により大学までいく。しかし勉学途中で外国に旅する。ドイツやフランス、イギリスにいき、グリム兄弟などに会っている。1834年29歳の時にはイタリアにも行き、その経験から1835年「即興詩人」が書かれ、評判になった。
ここに出てくるトルコとは「オスマン帝国」のことであろう。オスマン帝国は、1453年に東ローマ帝国を滅ぼし、されにその版図をギリシャ、ウクライナ、ハンガリーまでにも広げた。ハプスブルグ帝国はオスマン帝国と対立してその対応に苦心した。しかし産業革命がヨーロッパ諸国に浸透して、これら諸国の力はつよまり、そのためオスマン帝国の力は衰えていく。そしてギリシャは独立戦争を起こし1830年に独立を果たす。アンデルセンがローマに行ったのはギリシャの独立直後である。ギリシャはイタリアの対岸であり、ギリシャとオスマン帝国との戦争を意識したであろう。多くのヨーロッパ人は、ギリシャとローマをヨーロッパ文化の始まりと考える。しかしイタリアからルネッサンスが始まり他の諸国に広がったときローマが中心であった。ギリシャを強く意識するようになるのは19世紀の半ばからである。ミュンヘンを首都とするバイエルンのルートヴィヒ1世が理想としたのはアテネであり、その理想をイーザル河畔に実現しようとしたのはこの例である。シュヴァービングにさまざま芸術家や学者が集まったのもその理想からであろう。オスマン帝国強力であったし、チューリップやトルコ行進曲に象徴される華やかさからアンデルセンは、「空と飛ぶトランク」という童話の中にトルコの神様を挿入したのであろうと推測する。

2011年10月24日



  19世紀末にはフランスを中心として世紀末という顕著な現象が起きた。その代表的な人物をあげれば、パリやウィーン、ロンドンを中心として活躍したクロード・ドビュッシー、ワイルド、ビアズリー、ドガ、アルフォンス・ミュシャ、グスタフ・クリムト、フ−ゴ・フォン・ホーフマンスタールなどである 20世紀末は1900年代から2000年代に世紀が代わるとともに1000年紀から2000年紀へと代わるのでより注目されると思われるが、「世紀末の詩」とか「ノストラダムスの大予言」は注目されたが現実は19世紀末ほどには注目を浴びなかった。
18世紀末に始まった産業革命は、イギリスからフランス、オーストリア、ドイツへとひろがり、モノが安価に製造されるようになりその恩恵が一般庶民にもおよび、生活水準が上がり、小説類が売れ、ガラス工芸とか版画、ポスター、挿絵などにも新しい傾向が次々と現れてきた。しかし啓蒙主義による理性と進歩の考えは、フランス革命となって実現したかと思われたが、その革命後は、おおくの血が流され、ナポレオンの独裁、ブルボン家の復古、その後の革命と安定しない状況が続いた。19世紀末にはイギリス、フランス、ロシア、ドイツなどの間で植民地獲得競争が激しく、資本主義の矛盾と諸国間の対立による大きな戦争への予感がされていたことが原因であろう。そしてその予感が現実となったのが第1次世界大戦である。

2011年10月17日


 第2次世界大戦中に起きた重要事件の一つはヒトラーのユダヤ人の大量虐殺、ホロコーストであろう。第2次世界大戦はドイツとソ連のポーランド占領から始まり、ヨーロッパのユダヤ人は550万人殺され、そのうちポーランド系ユダヤ人は280万人といわれている。トレブリンカ、マイダネックなどが重要な強制収容所であったが、もっとも多くのユダヤ人が殺害されたのは、オシフィエンチム・ブジェジンカ(アウシュヴィツ・ビルケナウ)であった。アウシュヴィツには、ポーランドのクラクフからばかりでなく、ヨーロッパ各地から送られたユダヤ、ポーランド人、ジプシーなどが飢え、処刑、病気などで死亡したりガス室で殺されたりしている。
ヒトラーがなぜここにヨーロッパ各地からユダヤ人を送り込んだのかといえばアウシュヴィツは、鉄道輸送に非常に適していたからである。アウシュヴィツはかってハプス帝国の領土であった。即ち1795年のロシア、プロイセン、ハプスブルク帝国によってポーランドは分割され、そして1918年までハプスブルク帝国に属していたのである。鉄道はスティーブンソンの発明によりイギリスで開業しヨーロッパ各地でブームとなった。加賀美雅弘氏の「ハプスブルク帝国を旅する」によれば1840年代に鉄道建設が盛んとなりハプスブルク帝国内に民間資本に頼りながら鉄道建設が進んでいく。この民間資本の中心になったのがユダヤ人の資本家であるロスチャイルドであった。ロスチャイルドの多額の資本がウィーンからの北部鉄道と南部鉄道に投資された。北部鉄道は、正式名称を、カイザー・フェルディナント北部鉄道といい、チェコのプジェロフを経てシレジア地方に達し、アウシュヴィツを通って現在ウクライナ領のリヴォフに達した。これらの鉄道によりアウシュヴィツはウィーン、ブタペシト、プラハ、ベルリン、されにモスクワまでつながっていた。だからチェコのテレジン、ハンガリーのブダペシト、オランダのアムステルダムなどからこのアウシュヴィツにユダヤが多数送られて悲惨な最期を遂げるのである。

2011年10月11日


 コペルニクスとダーウィンには共通点がある。それは2人とも優れた科学者であるが「地球の回転について」というコペルニクスの地動説もダーウィンの進化論も、キリスト教の教えに反する点である。コペルニクスは「地球の回転について」の著書が、1543年に出版されるが販売は1543年彼が死を迎える直前まで許さなかったのは、教会からの非難を恐れてのことであった。ガリレイもまたコペルニクスの地動説を正しいとした「二つの宇宙説プトレマイオス説とコペルニコス説の対話」の著作のために宗教裁判にかけられ、この本は禁書とされ、この邪説を取り消すことが求められた。
チャールズ・ダーウィンが生まれたのは1809年であり、1859年に「種の起源」を発表している。ダーウィンは、昆虫採取などは好きだったが最初は医師を志し、ついで牧師になろうとしていた。その運命を変えたのが軍艦ピーグル号に乗り、地質学者として南米のブラジル、アルゼンチン、チリやエクアドル沖合い1000キロのガラパゴス諸島を5年間かけて調査したことだった。長谷川眞理子氏の「ダーウィンの足跡を訪ねて」によれば1931年12月ピーグル号でイギリスを出発したとき聖書の記述をまったく正しいと信じ、帰国してからは、英国国教会の牧師なるとことになんら疑問を感じない無害な青年が生物進化という異端な考えを持った有害な青年として戻ることになると書いている。
かれの時代にはすでに天文学、物理学、数学は大きな進歩を遂げ、1687年にはニュートンが「自然哲学の数学的原理」、いわゆる万有引力の法則を発表している。ヨーロッパは、いわゆる科学革命と啓蒙思想によって迷信や非理性的なことを信じる傾向は弱くなっていた。そしてイギリスでは1770年ごろから産業革命が進み進歩を信じるようになっていた。1851年にはロンドンで第1回万国博が開かれ、技術の進歩による安価な鉄とガラスを豊富に使った水晶宮は、人々を驚嘆させた。しかしイギリスはいまだ英国国教会の力が強くダーウィンは用心深く進化論に関する証拠を集めそのために「秘密ノート」をつくり後に「種の起源」という自説を発表するための準備を進めた。このためか心臓の動悸が激しく、胃痛、腹痛のため食欲がなくなるという病気に悩まされたという。
そしてピ−グル号に乗ってから28年後に1859年「種の起源」は出版される。社会に与えるショックを考えて「種の起源」の脱稿後は、足が腫れ、体全体が発疹になったという。また聖書を冒涜するものとして多数の反対にあった。 しかし当時のイギリスではガリレオのような宗教裁判にかけられて、進化論に関する本が禁書になるということはなかった。時代は変わっていたのである。

2011年10月05日








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